やる気を科学的に捉え学際的アプローチで解決する

 

はじめに第1章第2章第3章第4章・第5章第6章第7章第8章第9章第10章最後に

 

T 今の社会で生じやすい言説


(1)努力論の功罪
 やる気を出すとか出さないという話になると、たいてい顔を出すのは努力論だ。このウェブブックを読んでいるあなたも、やる気の問題を努力で考えたことはあるだろう。やる気の問題を努力うんぬんで考え始めると、様々な問題が起こってくる。

(2)努力を美意識と結びつける無意味さ
 やる気の問題を、努力で考え始めると、特定の価値観の問題に話がすり替わってくる。要は、努力が素晴らしいのかどうかという話になるということだ。これは美意識の問題だ。この努力の美意識の問題が加速すると、努力は好みの問題ということになる。そして肝心要の「あなたにとってのやる気の問題」はいつの間にかどこかへ行ってしまうのである。

(3)努力論は根性論ではなく、行動科学と自立型教育
 根性がすわっているのは、大変結構なことだ。フニャフニャした人間よりも、よほどいい。ただ、やる気の問題を根性の問題として扱うと、解決しなくなってしまう。最初のページの「特性要因図」を思い出してほしい。  やる気は、行動科学上の問題として取り扱い、自立型教育を徹底していくことで、解決していくことが多い。行動科学上の問題として扱うからこそ、誰でもやる気を引き出しやすいのである。

(4)ビジネス、経済界と、努力の関係
 やる気(モチベーション)の問題は、経営学の世界では、昔から研究が進んでいる領域だ。経済界では、業務の生産性を引き上げるという切迫した理由から、学問として研究が進んだ。いわゆる「やる気のスイッチ」のようなものが、研究され、何がやる気のもとなのかについて、実験結果に基づいた多くの理論が生まれている。やる気を引き上げることは簡単ではないが、何もかもわからず暗中模索で打つ手がないわけではない。

(5)お金の問題と努力論をどう考えるか
 「やる気を上げることや、努力はしなくてもいい、その理由は、金さえあれば、ガンバル必要はないからだ。」という論調もこの世の中には存在する。言うまでもなく、確かにお金は大事なものだ。しかし、お金の問題と努力は、結び付けたい人間だけが結びつければいいものである。
その理由は、お金の問題は生活信条の問題だからである。もっともっと欲しいと思う人もいれば、少なくとも満足している人もいる。自分の生活信条の方が、他の人の生活信条よりもハイレベルなんだと本気で思っている人もいるが、この手の人には、「俺がどんな生活信条を持とうが俺の勝手だ。」と言えばよい。

 加えて言えば、お金を行動のモチベーションにするのは、禁止する必要は無いが、あまり強いモチベーションにならないこともある。お金を行動目標に受験をがんばる受験生をいろいろと見てきたが、損得感情、メリットデメリットだけで行動しているので、勢いがあるうちはいいが、チョットしたトラブルで一気にモチベーションが下がるのを何度も見てきた。あなたがお金のために努力したい、努力させたいとして、それは悪いことではないが、うまく機能しないことも多いことは忠告しておきたい。

(6)再現性
 「金さえあれば努力はしなくてもいいだろう。俺はこんなに金を持っているのだ。どうだ!」という人の意見は、再現性の点で問題を抱えている。最近受験生の話を聞いていて、問題が深刻化している(起業すれば簡単にお金が稼げるようなので、勉強はやめようかなと思いますという意見が近年ある。)ようなので、念の為に話しておくと、起業は99%失敗するという統計が出ている。私は起業には反対しないし、否定的にもまったく見ていないが、少なくともお金のために目指すのであれば、その額が相当大きなものでない限り、合理的な選択とはとても言えない。人生の一時期に社会貢献するとか、人の5倍の努力と5倍の才能と、恵まれた運で死ぬ気で道を切り開き続ける覚悟がないなら、辞めておいた方が身の為である。生き方として選ぶのなら、問題ない。経済的な目的を重視するのであれば、多くのケースで勉強の方がはるかに楽で確実性も高い。これはMBAホルダーとしての個人的な意見でもある。勉強した後に起業することもできるのである。

(7) 立身出世かキャリアパスか

 〜労働とは本質的に売るもの〜
 今この世の中で何が起こっているのか。資本主義社会では、自分の労働は売るものである。年収○○円とは、自分の労働をその金額で販売することを指す。日本型の経営は、御恩と奉公という、封建時代に築かれた文化の名残から、「会社のために働き、自分を犠牲にして会社に尽くすことで、その見返りを期待できる」家族型経営が主流だった。それが近年実力主義の経営にとって変わられつつある。昔風に考えれば、労働を売るという冷めた目では見たくないかもしれないが、貨幣経済と資本主義社会の中では、働くということは、実質的には人材市場の中で自分をいかに位置づけ、交換不可能な労働価値として経営者に売るのかということになる。したがってどんな人でも人材市場で自分を売ることができなければ、高学歴ワーキングプアとなる。大変真面目で優秀な人でさえ仕事が無くて困るという事態も珍しくはない。その意味では、勉強をやりさえすれば万事うまくいくなどということはない。勉強はやりさえすればいいというものでもない。

 〜一般化できないため学習は有効に機能しやすい〜
 しかしながら、では勉強してもすなわち、意味がないということにはならない。例外的な事例(高学歴ワーキングプア)を取り上げて、一般化することはできないからである。どちらかといえば、言うまでもなく日本はまだまだ学歴社会であり、依然として出身大学である程度の年収が決まっていく構図は全体的に見れば変わりつつあるだけで変わってはいない。今後はさらに欧米なみに加速することも考えられる海外では出身大学で年収がほぼ決まることも少しも珍しくはない。

 〜今後置き換え可能な労働は増える〜
 今後ロボットが産業をささえるようになれば、多くの単純労働はロボットで置き換えが可能になる。また、海外との人材市場流通が加速することにより、国境を越えて、仕事が海外に外注される機会も増える。そうなれば、国内の仕事は必然的に減少する。

(8) 実力主義社会を甘く見るべからず
 「今は実力主義の社会になったので、勉強はしなくてもいい。」という意見もある。これは半分本当で半分はウソである。実力主義の分野とそうではない分野があるからだ。さらに実力主義の分野では、海千山千の人間もいれば、犯罪を犯すことで人を陥れる人間もいる。レビューサイトを荒らし、あることないこと(事実無根)を書込み、人の評判を落とそうとする人間もいる。サムスン電子という大企業ですら、このような違法行為を外注しており、3000万円の罰金支払いを命じられた。2チャンネルなどの掲示板サイトは無法地帯と化し、評判操作の温床になっている。掲示板アフィリエイトなどと呼ばれる手法が出てきて、掲示板でライバル業者の評判を落とし、掲示板でことさらに自社商品や金銭報酬を得ることができる企業や商品を持ち上げるという情報操作が普通に行われている。実力社会だからこそ、このような不合理や不法行為とも、正面切って戦う必要もある。考える力が無い人間から順番に脱落する。また、激烈な競争がある。大人数の中でほんのひと握りの外見、内面、財力、人脈、運等に恵まれた実力者がしたたかに生き残るのがこのような厳しい世界であることは言うまでもない。勉強の困難性に比べれば魑魅魍魎がうごめくこのような社会で這い上がることの方が何倍も難しい。

(9) 前提はクルクル変えられる
 ここまでに取り上げた事例だけではなく、○○なので・・・という理由で、物事に意味付は成される。大事なのは○○ではなくて、○○なのだ等、前提をひっくり返して意味付を行う論法というのは、よくある論法である。問題はこのようにクルクル前提をひっくり返しては意味付をする行為が、実態に即しているかどうかは甚だ疑問であるということだ。 小論文の講師として活動している私の知見から言えば、理由をつけて意味づけすることにはほとんど意味がない。物事はプラスにもマイナスにも自由に意味付可能だからである。 私が今述べたことに対してすら、前提をクルクル変えて意味付けをする人は現れる。(予言)

 

 














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