
分かるから『書ける』に変わるにはどうすればいいのかを詳しく書きました。
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MBAホルダーと言えば、バリバリ上場企業で活躍するビジネスエリートの保有資格のようなイメージが一般的にはあるかもしれません。しかし、MBAホルダーだからすごいという感覚は、私にはありません。MBAのコースで指導されるのは、あくまでも思考や専門的な知識であり、「だからなんなんなん?」と言えば、それまでの内容です。
48-2 教えられるのは知識でも考え方でもない
MBAのコースで知識や考え方を教えられたからといって、そのような内容には、あまり意味がないのではないかと私は考えることがあります。これは大げさな話でもなんでもありません。実際問題、現実の問題に対して、知識や考え方というのは、一般的に非力と言えます。なぜならば、考え方と呼べるレベルのハウツーでは、世の中の問題は解決しないからです。
また、明らかに有名な理論や考え方から言えば、「正解」と思えることは、一般的に間違いです。有名なスワット分析から言えば・・・とか、KPI戦略から言えば・・・などという考え方が、そのまま「まるっと正解」であったことなど、一度もないとさえ、私は感じます。事実、KPIなどのハーバード大学教授が考案した指標や戦略は、ビジネスシーンでは「絶対の正解」のように考えられることがありますが、開発者が自ら述べているように、KPIを重視する企業では失敗が多いのです。
言ってみれば、小利口になることはできても、それ以上にはならないとも言えます。「これが正解なんだ」「これが間違いないんだ」「これが頭の良い答えなんだ」という状況は、多くのケースでそれ以外の何かしら重要なことが見えなくなっており、広い視野が失われることによる損失を見出すことができていない状況を作り出します。
問題を解決するための手法が別の問題を作り出すのです。
このような事情を知らない人は、論理思考や問題解決、MBAを知れば、これらのスキルが身につくと考えてしまいます。しかし、本当はそんなことはまったくありません。
48-3 感性と論理の思考
知識でも考え方でもないなら何なのでしょうか。感性と論理の思考と言えます。もっとピンとくる言い方をすれば、「私に言わせれば」ということであり、「自分の頭で考える」ということです。
物事を単に自分の頭で考えるのであれば、そう難しいことではありません。妥当な形で、自分の頭で考えるということが難しいと言えます。
方法や知識以外の知のあり方が存在し得るということについては、意味が分からないと感じる人もいるかもしれません。世の中のどのようなことでも、知として構築もできれば、方法として確立させることもできると思っている人がいます。このように、人に何らかの符号を通して情報を伝えるやり方は、形式知などと呼ばれることがあります。一方で、情報化しにくく、属人的であり、かつ、符号化しにくいものを暗黙知などと呼ぶことがあります。知のあり方の内、神秘のベールに包まれており、伝達が困難であり、習得も難しいのは、暗黙知の方です。武田双雲さんが書く文字を再現することは難しく、ショパンの作曲を真似ることも難しいと言えます。どちらも芸術のレベルだからです。ひるがえって、経営学はどうでしょうか。答えはありません。日本において、経営の神様と呼ばれる松下幸之助氏は、現在数兆円の売上を誇るパナソニックの創業者ですが、経営を芸術のようなものと称していました。言葉にはできない、実相を見抜く力を彼は本にまとめています。私が運営する塾では、すべての塾生にこの本を配布し、私がこの本の内容について授業を行います。どのような知識や考え方をいくら学んだところで実相を見抜く眼力は養われないためです。自称神ではなく、神とあがめられた思考術を深く理解することに私は力を尽くしています。
私はこのように言っては身も蓋もないかもしれませんが、MBAをなんとも思っていません。私はMBAを学んだのではなく、大前先生(と、その他の先生)に学んだのです。
世界で最も頭がいい人は、ハーバードのMBAを取りに行くのが、典型的なパターンでしょう。そのハーバードのMBAを取った人が、一番就職したいのは、マッキンゼーです。マッキンゼーは、世界のトップ企業500社に経営を指導する機関です。最も頭がいいと思われている人が、就職し、コンサルタントになり、思考を指導するのです。ハーバードやスタンフォード、オックスブリッジという名門校を出て、マッキンゼーに入っても、どんどんやめていくと言われています。その中でトップを務めることができるのは一人だけです。そのマッキンゼーでアメリカ支社長を務め、日本法人の社長を務め、アジア太平洋局長を務めたのが、大前研一氏です。IQは200を越えるということで、よくわからない数値なのですが、この人のすごいところは、単に頭がいいだけではなく、マッキンゼーのトップであったため、世界の名だたる経営者や要人など、超がつく一流の人物と経営論を交わしていることです。もちろん、スタンフォードなどの超名門校と経営学のモデルについての議論も交わしています。学者や実務家の中でも本当に超一流のトップの人物とさしで話をし、ホンモノを見極める眼力を持っているということです。私はこの人を世界一の師と見定め、MBAを取りました。従って、MBA流ではなく、マッキンゼー流であり、マッキンゼー流ではなく、マッキンゼーのトップ流(もっと言えば大前流)なのです。私が塾で教えているのはその思考術です。
お師匠さんの口癖は、「私に言わせれば・・・」でした。逆に言えば、私達が学んでいたのは、教科書の知識ではなく、「私に言わせれば・・・」です。
上記のビジネススクールでは、もしあなたが◯◯であったなら、どうするかということを常に考えさせられるのですが、この場合、生徒の一人ひとりは、「もし自分が◯◯であったなら、私は◯◯する」というように、考えます。生徒は、自分なりの「私に言わせれば」を考え、その考え方のプロセスやイメージが、師範のそれとどのように違うのかを感じ取ります。
解答がどうかは大きな問題ではありません。解答に至る「感じ」がどのようなものであり、どのような哲学に基づくものなのかが大切です。世界中の知の要人の暗黙知が彼の頭のなかに詰まっており、彼のフィルターを通した成果物を学んでいるのです。その意味で、答えよりも、何をどのような調子で師が述べているのかの方が大切です。
思考の様式も様態も、無限に存在するので、その無限をなんらかの正解で表記しようとすると、表記できません。無限は無限でしか現すことができません。私が学んだ大学院の校章には、その無限が表現されています。無限の知のネットワークを表現した校章なのです。無限は無限以外の概念では説明できません。無限という概念を、無限という符号で認識するしかないのです。
ひるがえって、知のあり方とは、どのようなものでしょうか。私は無限だと言いました。無限に存在する答えの中から、唯一の方向性を絞り込み、「最適な一手」を打つのが、意思決定です。何かの教科書に書かれている「正解が出る答えの考え方」という、気絶するほど短絡的な考え方の先に、妥当な「最適な一手」は存在しません。それは、もっともらしく、リスクを恐れる人物が、時代遅れであってもかまわないので、みんながそうしているという理由から、あるいは、見えない世界が見えないことによって、それが正解であるように感じられる「正解っぽいもの」です。
考えるということは、近年14歳の少年が、天才ばかりが集まる棋士の世界で、連戦連勝を続けているように、大変楽しいゲームであると同時に、地獄のように苦しい作業です。将棋の打ち手は、無限に存在します。その無限の中から、最適な一手を導き出すのが将棋です。「無限に変化する世界」では、常に良いことは悪いことであり、悪いことは良いことです。何がどのように作用するのか分かりません。だから面白いのです。勉強をやりすぎると、「正解」にこだわるようになります。正解にこそ価値があると疑わなくなるからです。しかし、現実の世界では、何に価値があるのかが問題です。正解にどれだけの価値があるかが常に問題となり、正解も無限に存在することがそもそも問題です。良いことが悪いことにつながり、悪いことが良いことにつながる世界では、何が最適な一手かは常に論理的かつ感覚的に判断されるようになります。
思考の正解とは、きれいに教科書に印刷された「正解」ではなく、感覚的な「私に言わせれば・・・」です。
だからこそ、急速に成長したければ、1000年生きているような人物に、直接教わればいいのです。
世の中には、1000年生きているような人物がいます。もちろん、人の寿命は、100年もありません。この意味で、矛盾していると感じる人もいるでしょう。しかし、同じように息を吸って吐いていれば、誰でも同じように生きていると考えるのは大間違いです。物理的に計算しても、一日中学んでいる人は、全く学ばない人の一生分以上の学びをたった1年で実現するのです。
コレに加えて、このような一流の中で、さらに人に会い、学びを加速させていく人は、数百年生きたような学びを得ている人からさらに学びを吸収していきます。出会うことで学びが加速し、他の人では到達できない次元に到達していきます。学ぶから、学んだ人と出会えるのです。
会話をすれば相手のレベルが分かります。会話をしない場合、相手が何を考えているのかがわからないため、相手のレベルがわかりにくくなります。会話を通して、相手の考えをトータルに理解していく作業が大切です。
会話は、学びを加速させます。こうやって、1000年生きたような人物は出来上がっていきます。1000年、万年生きたような人物から、教えを学び、吸収していくことで、急速に成長できます。教科書を読むから成長できるのではありません。教科書に書かれているのは知識です。
知識は価値の一形態です。価値の全てではありません。価値を学ぶということが学ぶということです。価値の考え方あり方を学ぶということが、マネぶということです。新しい考え方や価値認識を学んだ時に人は成長します。
小論文の添削作業は会話です。出題者が作った問題に生徒が応答しているのです。会話とは価値を問うものです。知性とは、この価値を見る力です。従って、価値を求めない問いや、質問は何の練習にもなりません。
単に字がきれいになったら、よいのではありません。
文章がうまいから点数が高いのではありません。
よく分からない難しいことを言えば頭がいいのではありません。
正解の出し方を知っているから頭がいいのではありません。
よく評価される正解の出し方を学ぶことが学ぶことなのではありません。
出題者の知の要求に対して応答することが、学ぶということです。
解答者が見えた世界を説明してもらうことが解説です。この意味で、他人が作った解答例の解説ほど意味がないものはありません。この手のものを慶應の過去問題の解説だからという理由で喜んで何時間も聞いている子は不幸です。最初から何も解説していないからです。見えたものを解説するのが解説です。見えていないのに解説していれば、「見えたふり」をしているだけです。
正解の出し方が解説なのではありません。それは表面的な考え方です。
解説者が出した正解の一形態は、どのようにして見えるようになるのかを学ぶことが「小論文を学ぶ」ということです。知識を頭にしこたま詰め込むことが小論文を学ぶということではありません。それではいつまでたっても、物事が見えるようにはなりません。
ありがたいことに、当塾からは、わずかな生徒数にもかかわらず、日本一が2年連続で出ています。全国トップの成績になる子も珍しくありません。
私は一度も、MBAなど教えたことはないと考えています。大学院で私が学んだことを、私は教えているというのは事実です。しかし、大学院で学んだ講義の内容を教えているのではありません。私は、世界一の師匠と見定めた師の「私に言わせれば・・・」を私のフィルターに通し、「私に言わせれば・・・」を教えることを通して、生徒一人ひとりの「私に言わせれば・・・」を鍛えています。たったひとつの正解があるように教えたことはただの一度もありません。
もしも私が「すごい人が言っている方法」を生徒に教えても、今のような実績は出なかったでしょう。私が教えている内容は、世界観ですらあるのです。生き方に哲学があるように、考え方に哲学がないのに、いったいどうしてユニークな考え方ができるでしょうか。できるはずがありません。
知識を与えるだけでは、人は絶対に成長しません。正解は本には書かれておらず、それを読むだけでは評価されるようにはなりません。本は成長を加速させるものですが、高いレベルに到達するには、別の学びが必要です。 妥当な哲学を学び、深く理解することが大切です。
もしもみなさんが、小論文試験で、自分の答案を書くことができないのであれば、「私に言わせれば」(あなたに言わせれば)を、考えることができないということです。
もしもみなさんが、自分に才能がないと悩んでいるのであれば、才能を開花させることが大切です。あなたの才能を開花させるためには、今日お話したことが極めて大切です。才能が無くてもいい方法は魅力的に見えるかもしれません。しかし、その「方法」に頼っている間はどんなに何をどれだけ繰り返しても、「私に言わせれば・・・」を鍛えることはできません。才能は閉じたまま、死んだままです。あなたの才能に息吹を吹き込み、大きく開花させるには、あなたが自分の頭で真に考えることを学ばなければなりません。
こんな風にお話をすると、私は随分と、いい加減なことを言っていると思う人もいるかもしれません。念のためにお伝えしておくと、私が見た限り、マッキンゼーなどのコンサルティングファームがまとめる資料は、気絶するほど論理的です。 根拠も論拠も、グウの根も出ないほど、反論の余地がまったくない次元できっちり論理的にまとめられています。
したがって、ここまでにお話した「私に言わせれば・・・」という意見については、一般的に反論の余地がないほど誰もが納得する結論であり、論理だと思ってください。当たり前ですね。一ヶ月に数千万円支払い、世界トップレベルの頭脳に戦略立案や経営分析を依頼しているのです。根拠も論拠もゴリゴリに整理されているなんてレベルではありません。
それでは、私がここで述べた、「私に言わせれば・・・」とはなんなのでしょう。
例えば、ある仮説が導かれる際に、整理された論拠や根拠があったとして、同様に、鏡に映したように、その反対側にも、論拠や根拠は無限にあります。一つの命題は表裏一体であり、反対側にも論拠や根拠は常に存在します。
それでは、その両側を論理的に判断すればいいと言う人もいるかもしれません。しかし、問題はもっと広範囲に存在しています。
特定のAはBであるという命題がそもそも、問題ではないことがあるということです。この点については、問題解決の問題なのですが、機会があればまたお話しましょう。どの論点をどのようにまとめることが真に問題解決へつなげることができるのかという考え方は、哲学的なものです。
私がMBAのコースで得た知見の一つはこの部分に対する「感得」でした。
そもそも、人の論理思考の判断には常に限界があり、人はすべてをもれなく考えることができるわけでもありません。時間と共にすべての環境は変化しています。時間とコストの問題で、情報をすべて集めることができるわけでもありません。
加えて、問題だと思っていることが問題ではないこともあります。さらに、特定の問題を解決するために、当たり前に大切だと思われていることも、当たり前ではない可能性があるのです。
故スティーブ・ジョブズは、「何をやるかよりも、何をやらないかが大切」と述べています。目の前の問題を解決することが当たり前に大切だと思っているのは、そう思い込んでいる人だけであり、本当は全く何もせずに動かずにいることが大正解であることもあるのです。
こうやる方がいいに決まっているとか、周りの人がバカに見えて仕方がないとか、自分が正しいに決まっていると思っているときほど、人は判断ミスを犯しがちです。
どういうことなのか、実態はどうなのか、常に好奇心を持ち、自分が間違っている可能性が常に0ではないことに目を光らせなければなりません。
このように書いている私も、今書いていることの中に間違いがあるのではないかと、常に考えていますよ。
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