このページでは、メルマガで流した慶應大学の文系学部の小論文問題の解説を掲載しています。
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2017年度慶應大学看護医療学部 小論文過去問題解説
こんにちは。
牛山です。
本日は、2017年度 慶應大学看護医療学部小論文過去問題解説です。
今回の問題は次のようなものです。
問題1
多事総論について、説明しなさい。
課題文を読み、内容をまとめていく説明問題が出題されています。現代文の説明問題のような問題です。
この問題の解き方ですが、多事総論についての直接的な説明部分の文字数は少ないので、いくらか補って、説明文を完成させる必要があります。
課題文を見てみると、
------引用開始-----
「自由の気風」と呼び、そうした気風の中から様々な異端妄説が出現して、互いに競い合う有様を「多事争論」という言葉で呼んだ。
-----引用終了-----
という部分が、直接的に「多事総論」という言葉を説明している部分になります。
------引用開始-----
そうした心構えを、「自由の気風」と呼び・・・
-----引用終了-----
と書かれているので、「そうした心構え」とは何のことなのか、直前の文を見てみます。そうすると、
------引用開始-----
こうした「異端妄説」を進んで唱道することをよしとするような心構え
-----引用終了-----
と書かれています。
この「こうした」の部分に何が書かれているのかをたどってみると・・・
世論に縛られることなく発する言説のことを、「異端妄説」と呼ぶことが分かります。
従って、これらを組み合わせると、
世論に縛られること無く、異端妄説と言うべき見解を進んで唱道することをよしとするような心構えが共有された状態を、「自由の気風」と呼び、そうした気風の中から様々な異端妄説が出現して、互いに競い合う有様を「多事争論」という言葉で呼んだ。
という文章を作ることができます。
こうやって、解答を作っていきますよ。
今回の問題は、典型的な「指示語問題」です。指示語が指している部分を探していくと、正解が分かります。
ここまでの説明で、大雑把に「多事争論」について説明したことになります。あとは、この総論に対する補足説明を作っていきます。
多事総論のキーワードが課題文に出た直後を見ていくと、福沢がどのように多事総論を捉えていたのかが書かれています。
このあたりの内容について、文章をまとめれば、多事総論について、課題文に書かれている内容をまとめたことになります。
解答例をご紹介します。
問題1 解答例
世論に縛られること無く、異端妄説と言うべき見解を進んで唱道することをよしとするような心構えが共有された状態を、「自由の気風」と呼び、そうした気風の中から様々な異端妄説が出現して、互いに競い合う有様を福沢は「多事争論」という言葉で呼んだ。福沢は、各人が様々な説を唱えながら社会の中で知識が共有され、議論が繰り返されることを通して、社会全体として、試行錯誤的に社会全体の知識のあり方が改善されていくと考えた。
問題2
福沢はなぜ惑溺を批判したのか。本文をもとに500字以内で論じなさい。
惑溺とは、課題文の中で説明されている言葉です。
聞いたことが無いのが普通だと思います。
課題文では、この惑溺という考えについて、詳しく説明があります。
惑溺とは、端的に言えば、宗教、学問、世論などについて、特定の考え方に依拠して、物事を見ることで、バイアスがかかり、正しく判断ができなくなっている様ということができるでしょう。
今回の問題では、本文をもとに論じなさいとあるため、本文で説明されている理由に言及しつつ、1)問い2)仮説3)論拠・根拠)4)結論の4つを述べればよいということになります。
ただし、「論じなさい」「本文をもとに」とあるため、自分の考えは一切入れてはならないということではありません。
したがって、課題文で言及されている論拠に言及しつつ、自分の考えを述べていく必要があります。
それでは、解答例を紹介します。
問題2 解答例
福沢はなぜ惑溺という考えを批判したのだろうか。「惑溺」とは、科学的な態度とは、正反対の態度であり、およそ物事を正確に考察するための態度ではないからであると私は考える。
課題文には、多くの人物が海外の文献に心酔し、場合によっては恐れさえ抱くあり様について福沢が批判する様が書かれている。現代でもこのようなことは珍しくない。ハーバードなどの権威ある大学の研究者が書いた論文をありがたがり、その内容を精査することなく甘んじて考えを受け入れ、批判を検討する際にも、自分以外の誰がどう考えたのかばかりを気にする態度が一般的である。先行研究が重要であったとしても、それよりもはるかに重要なことは、自分の頭で論理的に内容を精査することである。先行研究に追従するあまり、本来どの部分を論理的にチェックしなければならないのかすら分からなくなった時、先行研究を調査する意義はほとんどなくなってしまう。
以上の理由より、物事を正確に考察することができなくなるため、福沢は惑溺という考えを批判したと私は考える。