このページでは、メルマガで流した慶應大学の文系学部の小論文問題の解説を掲載しています。
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2010年度 慶應大学文学部 小論文過去問題の解説
こんにちは。牛山です。
今日は慶應大学の文学部、2010年度の過去問題の解説です。
ご興味がない方はここでメールを閉じてください。
【1】概要
(1) テーマ
2010年は、「国語」がテーマの課題文が出題されました。
文学部らしい問題ですね。グローバル化が進んだ現代、日本語ではなく、英語を公用語とする方がいいなどの、意見もチラホラ見聞きするようになりつつありますが、このような意見に対してどう考えるべきなのかという考察が課題文でも行われています。
~用語解説:「公用語」~
--------ここから引用--------------
公用語(こうようご)とは、国、州、国際的集団など、ある集団・共同体内の公の場において用いることが公式に定められた言語を指す。その集団が有する公的機関には義務が課され、公的情報を発信する際等には公用語を用いなければならない。ある国において公用語として複数の言語が定められた場合には、その全ての言語を用いて公的情報を国民へ伝えなければならない。従ってこの場合、国家(あるいは集団)の公的機関は、全ての公用語を併記し通訳して伝えることになる。これによって、指定された複数の言語のうちどれか一つの言語だけを理解する国民(や構成員)に対しても不利益を生じさせないという原則が守られる。一言語集団が大多数を占める国家や圧倒的に強い力を持っている国家の場合、公用語を法律で定めていない場合もある。
-----ここまで引用-----------------
以上、Wikipediaから引用
どうでしょうか、
あなたは、英語を公用語とすることに対してどのような考えを持ちますか?
(2) 問題構成
問題構成は例年通り、以下のような形です。
設問1:説明問題
設問2:論述問題
このスタイルは長年変わっていませんね。
【2】設問1
(1) 説明問題の解き方
説明問題の解き方の基本は、課題文の文章のキーワードを用いて、文章を再構築するという解き方です。
コレをやらない場合、自分の都合で、大きく課題文の中で述べられていることを書き換えてしまい、気が付くと、まったく違ったことを述べていたということになりかねません。
そういう受験生の失敗はよくありますよ。
今回の問題の場合、以下の2点に注意すれば、そこまで難しくはないでしょう。
(1)設問の要求
「違いが分かるように」と課題文で要求がありますので、違いが分かるように、相違点を明確にしましょう。
(2)文学部で出題されていることを大切に
今回の問題では、国語というものが成立するのは、奇跡的なものであると、述べられています。いくつもの偶然が積み重なり、私達は国語を享受しています。
また、その国語を用いて、教育を行い、その国語の研究をしているのが、文学部の学者の先生方であるとの認識も大切です。
従って、そもそも、この問題が作られた背景には、作問者が持っている「問題意識」があります。
その問題意識とは、この世界的に見ても稀有な言語である、日本語を、後世に残し、近代化の荒波の中で、悪しき効率主義によって荒廃させるべきではないというものです。
だからこそ文学部で出題されていることを考えて、答案を設計しましょう。
(2) 解答例
-------------ここから-------------
普遍語とは共通語として使われる言語であり、英語が代表的なものである。西欧列強による植民地政策等により宗主国が使用していたものである。現地語とは、日常生活で現地の住民が使う言葉である。現地語が国語に変わっていく過程は奇跡的なものであり、日本においては、書き言葉としての成熟、印刷資本主義を持っていたこと、西洋列強の植民地にならなかったことなどが成立条件であった。国語とはこのように奇跡的に現地語が発展し、国民国家の成立時に翻訳という行為を通じて生まれたものであり、普遍語と同じく人類の叡智を刻む機能を負うようになったものである。
-------------ここまで-------------
この手の問題は、キーワードに配点基準があるのが、一般的です。
今回の問題の場合、国語の説明部分で言えば、
・奇跡的に現地語・・・の下り
・人類の叡智を刻む・・・の下り
等の部分は含まれている方がいいでしょう。
【2】設問2
(1) 設問の要求
設問2では、水村氏の現状認識を踏まえた上で、英語を日本の公用語とするという意見について、自分の意見を述べなさいという要求があります。
この問題はどのように解くべきでしょうか。
(2) 一般的によく言われること
合格のコツをお話しますと、日本語はグローバル化した社会では、たいして役立たないので、英語をさっさと公用語とする方がいい・・・
という方向性案で、答案を設計した場合、文学部では、ウケが大変悪い可能性があります。
どちらの立場で書けば合格、ということはありませんが、合格を考える場合は、英語を日本の公用語とする意見には反対しておく方が無難でしょう。
まあ、個人的にはそういう尖った意見も嫌いではないですけれどもね。
本試験であなたの答案を採点するのは私ではないので、念の為にお伝えしておきました。
(3) 個人的には・・・・(余談)
個人的には、正直どっちでもいいのかなぁと感じるところがあります。
理由は大きく2つです。
まず一つ目の理由は、母語を英語とする場合や、公用語を用意する場合、フィリピンを見れば分かりますが、大体ああいう感じになりがちです。
もちろん、シンガポールのようになるケースもあります。
これをどのように私は見るかと言いますと、日本が国際社会でどのような戦略軸で今後国家運営を行っていくのかという戦略論の観点から見るべきだと思うのですね。
シンガポールのように、アジア経済圏のハブになり、金融等でも中心的な役割を果たしうる構想があるのであればどうなのかなとも考えられますが、今の日本がそれをしてもサルマネになり同じような役割は果たせないでしょう。
もっと露骨に言えば、日本という国は何で食っていくつもりなのかということになるかもしれません。
従いまして言語の機能性うんぬんを中心に考えすぎないことも大切です。
もちろん、、、、日本人は、かなり言語で損をしているところもあります。
しかし、現実には、損をしているだけではなく、得をしているところもあります。
それは海外の人と話をしてみて、感じることでもあるのですが、考えが大雑把なことも珍しくありません。
一つの言語で抽象度が高い思考を日常的に行うことが少ないのかもしれません。
日本語を消すのならまだしも、日本語と英語という2つの言語が公用語となった場合、このような現象が加速する可能性はあります。
肝心要の思考が、言語に支えられている以上、私は思考力と言語力のアドバンテージを天秤にかけると、一概には言えないのかなぁと思ってみたりするのですね。
このあたりは、帰国子女の答案をたくさん見ている経験も手伝っているかもしれません。
英語が得意でも、考えることが苦手になっている人も中にはいるんです。(皆がそうではありません。)
フィリピンも、タガログ語と、英語を両方操りますが、そこで損をしている人も多いと思いますね。さらに言えば、言語学者に言わせれば日本語は世界屈指の難易度の言語だそうで、それを苦もなく操っていること自体が、西洋圏の言語学者からすると若干リスペクトなのだそうです。
2つ目の理由は、ITの進化です。
言語の壁がいつまで存在するのか怪しくなってきました。同時通訳ソフトの進化と音声認識機能の強化、自動翻訳技術の向上などで、今後数十年の内に言語がなんの垣根でもない時代がくるかもしれません。
そうなった時、教育政策で公用語を変更している間に、そういう時代が来てしまうかもしれません。教育政策の実効性が、15年後に発現するのであれば、その前に、ITにより、あまり言語の垣根がなくなっているかもしれませんね。
国策として、教育を変革する際に、どこに特化していくべきかという問題とこの問題は切り離せないとも言えます。
(4) 解答例
水村は、奇跡的に成立した日本の国語を代表する近代文学を読むことを強く推奨している。その理由は、時代の流れに耐えた古典を国語教育の基本に据えることに意義を感じているためである。第二の理由は、読む能力の不可逆性である。
この水村の現状認識を踏まえ、英語を日本の公用語とすべきかについて考察する。私は英語を日本の公用語とすべきではないと考える。
理由は大きく三点ある。一つ目の理由は、水村が述べる読解力の不可逆性である。読解力は、思考力を担保する点に注目したい。第二の理由は、思考力が担保されるには、中途半端な言語習得は弊害になるためである。人間は思考を言語でも行う。思考活動において言語は極めて重要な役割を果たす。中途半端にバイリンガルになれば、思考力が低下すると説く専門家もいる。第三の理由は、英語を公用語とする一般的言説の根拠が脆弱である点である。英語を公用語としても、日本人の経済効率は上がらない可能性も大きい。上記のように思考力が担保されないためである。
【3】編集後記
今回は若干功利主義的な観点からの考察が過ぎましたが、文化的な視点や日本に対するノスタルジー的な観点からも、日本語は大切に扱っていきたいですね。
皆さんの場合、どう感じるでしょうか?