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1999年度 慶應大学文学部 小論文過去問題の解説
こんにちは。
牛山です。
本日は、1999年度慶應大学文学部小論文問題解説です。
【1】問題概要
(1) 設問の要求
モシ族における「もの」と「ひと」の関係を要約して述べなさい。
(2) 考え方(解き方)
典型的な説明問題です。
今回の問題では、「要約して述べなさい」となっていますが、字面に反応しないようにしましょう。
課題文は長いので、やや戸惑うかもしれませんが、課題文の中に散らばっている「モシ族の『もの』と『ひと』の関係」を説明している部分を抜粋してつなぐイメージです。
課題文の中には以下のような「文章のパーツ」があります。
これを適宜、総論と各論という形で、文章としてまとまりがある形にまとめていくことを考えてみましょう。
(1)人間以外の生き物も「もの」として見なし、人間と人間以外のものをはっきりと区別する。
(2)人間以外のものが、人間のために犠牲になるのは当然という態度がはっきりしている。
(3)モシ族は、ものに対しては徹底した即物的な思考の持ち主であり、情緒的にものとかかわろうとするところがない。
(4)もの自体は擬人化されず、人間とのあいだに一線が引かれていることにおいて人間中心的である反面、ものを動かしている力は、個別的でなく、まるがかかえに人間が働きかける対象として擬人化されていることによって、人間中心になっていると言える。
(3) 解答例
モシ族における「もの」と「ひと」
の関係は、徹底した人間中心主義であ
る。人間以外の生き物も「もの」とし
て見なし、人間と人間以外のものをは
っきりと区別する。その上で、人間以
外のものが、人間のために犠牲になる
のは当然という態度がはっきりしてい
る。モシ族は、ものに対しては徹底し
た即物的な思考の持ち主であり、情緒
的にものとかかわろうとするところが
ない。もの自体は擬人化されず、人間
とのあいだに一線が引かれていること
において人間中心的である反面、もの
を動かしている力は、個別的でなく、
まるがかかえに人間が働きかける対象
として擬人化されていることによっ
て、人間中心になっていると言える。
(4) 課題文の概要
今回の解答例を見て、既に感じ取っている人も少なくないと思いますが、
この課題文では、モシ族というアフリカのある部族が紹介されています。
このモシ族の特徴を表すエピソードとして、子供が喜々として、鶏を殺すシーンが解説されています。
家畜の生き血を祖先の墓石にそそぐ、いけにえの儀式のようなものが紹介されます。
のどを切られたニワトリがもがきながら、血を搾り取られたあと、老人の手の中で骨を折られ、人間の願いが聞きいれられたかどうかを落ち方で占うために、ニ、三メートル先の地面に放り出される・・・・
なんてエピソードが紹介されているのですね。
まだようやく白い羽根がはえそろったばかりのひなどりも同様の残酷な結末を迎えます。
しかも、モシ族の子どもたちは笑いながら楽しんでやるのだとか・・・
うーん、ちょっと激しいですね。
なぜこんな残酷なことができるのか?
一般的に文明人と呼ばれる人たちからすると、残酷すぎて見ていられない気持ちになるかもしれません。
この後に、モシ族がこのような考え方をする理由について著者の考察があります。
まず著者は、モシ属は徹底した人間中心的な考え方をするのではないかと考察し、その上で、モシ族が使う言葉に注目します。
人間中心と呼ぶ場合、その中心に対するものは何か?
私たちは人間と自然といように、二元的にものを見ることがありますが、モシ族には、そもそも自然という言葉にあたる言葉が存在しないのだとか。
モシ族は、人間の側なのか、そうではないのかという形で世界を認識している事例がその後紹介されています。
人間の生活領域・・・イリ
人間のいない荒れ野・ウェオゴ
という具合です。
イリほにゃらら
ウェオゴほにゃらら
という形で世界を認識する言葉があるとのこと。
ちょっと面白いですね。
子供が反抗する⇒「ウェオゴに行った」
動物がいうことをきかない⇒「ウェオゴ風になった」
社会のしきたりを知らない⇒「ウェオゴ風」
という具合です。
そして、もう一つ面白い考え方があります。
モシ族の社会関係です。
人間関係ですね。
この人間関係を語るのに、頻繁に用いられる言葉に「ベレム」(とりいる)があります。
ある強者に、挨拶、贈り物を欠かさず「ベレム」(とりいる)することによって、庇護を期待できるのだとか。
この「ベレム」(とりいる)という言葉は、人間関係だけではなく、世界の根源的な力(ウェンデ)に対しても同様です。
擬人化されたウェンデ(世界の根源的な力)に対して、「ベレム」(とりいる)する・・・・
ちょっと面白いと言えば面白いのですが、このように、モシ属は世界を認識しているのですね。
さて、ここで筆者の最終結論を紹介します。
-------------ここから-------------
「自然」という、そもそもモシ語にない概念によって、たとえば「モシ族における自然の利用」といった形でこのサバンナの文化を論じることが、一方的な枠組みによる対象の切り取りになりやすいことは明らかだ。
私自身しばしば行ってきたこのような切り取りは、彼らの思考の枠組みだけを取り入れることによって、「正しい」ものとなるわけでは勿論ない。彼らの枠組みと私の思考の枠組みとの、葛藤ないし相互作用のうちに、世界像ないしイデオロギーと、技術・物質文化とが、相互にもっているはずのかかわりを、具体的にあきらかにしてゆくこと。私が将来に向かって、未解決のままにかかえている課題の一つだ。
-------------ここまで-------------
この課題文の内容を踏まえて、設問2を見てみましょう。
【2】問題2
(1) 設問の要求
自分たちと異なる文化を理解するための心構えを、筆者の見方を取り入れながら、具体的な事例をまじえて述べなさい。
(2) 考え方
異文化理解についての見解を述べればいいのですが、注意すべきは、「筆者の見方を取り入れながら」という部分です。
筆者の考えは、先ほどご紹介した結論の部分です。
-------------ここから-------------
「自然」という、そもそもモシ語にない概念によって、たとえば「モシ族における自然の利用」といった形でこのサバンナの文化を論じることが、一方的な枠組みによる対象の切り取りになりやすいことは明らかだ。
私自身しばしば行ってきたこのような切り取りは、彼らの思考の枠組みだけを取り入れることによって、「正しい」ものとなるわけでは勿論ない。彼らの枠組みと私の思考の枠組みとの、葛藤ないし相互作用のうちに、世界像ないしイデオロギーと、技術・物質文化とが、相互にもっているはずのかかわりを、具体的にあきらかにしてゆくこと。私が将来に向かって、未解決のままにかかえている課題の一つだ。
-------------ここまで-------------
要は、、、、、、、、、、
筆者は思考の枠組みによって、世界の見え方が変わるという見方をしています。
思考の枠組みが言葉によって生まれていることにも注目したいですね。
異なる文化を理解するための心構えとして、どのようなものが大切になるでしょうか。
少し考えてみましょう。
その上で、構成を考えてみてください。
いつものように、10秒でも、3分程度でもいいので、考えてみましょう。
それでは、解答例をご紹介します。
(3) 解答例
自分たちと異なる文化を理解するた
めの心構えとして、「思想や物事に対
する考え方の背景にある言葉」に注目
することを私は提案したい。
私の母は幼少期田舎で育ち、鶏をし
めて食べる際に、大きなショックを受
け、それ以来肉を食べることができな
くなったという。これに対してモシ族
は、課題文にあるように「人間以外の
もの」と鶏を見なす文化の背景に、モ
シ族特有の認知様式がある。人間は言
葉を仲立ちとして世界を認知する。モ
シ族にとっては、生き物ですら、「人
間の側に属するもの」か「人間の側に
属さないもの」というように、認知さ
れている。従って言語の設計思想が日
本語とモシ族の言葉ではまるで違う。
言葉が認知様式を作っているため、モ
シ族の言語を知らない場合、彼らの言
語に基づいた認知様式の結果としての
思考や行動を全く理解できないという
ことになってしまう。
従って、私は「思想や物事に対する
考え方の背景にある言葉」に注目する
ことを提案する。
【3】編集後記
私の母はベジタリアンなのですが、その理由は今回の解答例にもあるように、ニワトリをしめて食べるときのトラウマにあるようです。
相当ショックだったのでしょうね。
私の場合は、同じくお肉を食べないのですが、それは単にアレルギーがあるからです。
お肉を食べると体がかゆくなってしまいます。
日本人は動物性のタンパク質を消化する酵素を持っていない人が多いそうです。
体の不調がある人は一度お肉の食べすぎを疑ってみるのもいいかもしれません。
私の友人は、お肉をたつことで、病気が治ったそうですよ。