議論力養成ウェブブック

 

 

牛山 恭範 (著)

 

 

はじめに(目的)

 いじめを苦に自殺をする若者がいる。日本では年間約200名の若者が自殺を苦に命を落としている。認知されているいじめの件数は、2013年度には過去最多の19.8万件が報告されている。すべてのいじめが認知されているわけではないため、実質的ないじめの件数は認知件数の数倍あるとも言われている。

 私は減少しないいじめを苦にした自殺者保護、及びいじめ問題の対策として、クラウドソフト「いじめ日記110番」というクラウドソフトを自社開発した。これはクラウドのノートソフトである「構造ノート」のスピンオフ企画である。

 私のこのような活動に対して、「自殺をする人間が自殺をすることを止めることが果たして良いことなのか・自殺は必ずしも悪いことではない。」という反論がメールで提示された。反論というよりは、簡単な疑問を感じているようだったので、このウェブブックでは、この内容を扱い、『小論文やディスカッションの初心者』が議論力を養成することを目的とする。2007年度の慶應義塾大学総合政策学部の入試問題の内容も若干交えながら記載していきたい。

 今回のウェブブックでは、議論力を養成するために、周辺から話を入れていく予定だ。その前に、ウェブブックの中で、今回の反論を扱っている核心的な部分を先に紹介しておこう。

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《論点》「救うことができるいじめ被害による命は救うべきだ」
《反論》自殺を止めるのは果たしていいことか?

 このようにかろうじて自殺問題を扱っている点では、半分テーマが一致している。しかしながら、論点は全く別の論点となっている。別の話であり、本来の「救うことができるいじめ被害による命は救うべきだ」という命題についての真偽を判定する材料にはなんら役割を果たしていない。自殺を止めることがいいことかどうかという問題は、前提の一部に過ぎず、局所的に瑣末な論点を取り上げて、例外的な事項を取り扱い、『自殺を止めるのは果たしていいことか?』という問いを発することには、意味がほとんどない。いいこともあれば悪いこともあるからである。末期ガンの患者の安楽死の是非の問題など、極めて例外的な事例と、いじめによる自殺の問題を同じ基準や尺度で考察することはできない。いじめの問題は、対策可能性が何十種類とあり、問題発生の大きな因子が加害者側や社会、周囲の人にもあり、いじめは環境が変わり、時が過ぎれば終わることも多いためである。これだけの理由があるにも関わらず、「死んでもいいのではないか。」と述べる意見が存在することについて、あなたはどう考えるだろうか。テーマが一致しており、論点がズレた意見は時にもっともらしく見えることがある。しかし、議論の論理構造を詳らかにし、論点と理由(前提)の論理的なつながりの強さ、論理的整合性をチェックすれば、論評にも値しない言説か妥当性がどの程度あるのかはすぐに分かる。

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