議論力養成ウェブブック

 

T 今の社会で生じやすい言説


1)「自殺は必ずしも悪いことではない」との主張
 自殺は必ずしも悪いことではないという主張はなぜ生まれたのだろうか。このような意見(「自殺は必ずしも悪いことではない」)は本来問いが漠然としているため、極めて自明な答えが導かれる。「必ずしも」という限定的な文句がつくことにより、答えは当然「YES」である。自殺というものが何を指しているのかが極めて不明確であり、また悪いかどうかという問いは実質的には何も論点を含んではいない。物事には良いこともあれば悪いことがあり、常に表裏一体なのが常であり、物事には二面性があることが多いのは自明なことである。したがって自明であるがゆえに、ここで提示された論点は、本来は問いとして設定する意義が極めて低いものである。かつ、漠然としており論点は実質的には設定できていない。

2)人の意見にかぶせて墓穴を掘る
 コミュニケーションの手段が多様になり、通信インフラ及びデジタルデバイスが普及した現代では、個人が自由に発言する機会が多くなった。その結果必然的に起こりがちなのは、SNSでのいじめや、言外に含みのある発言である。自分が直接面と向かって素性を明かし議論することを避けるケースもある。また素性を明かしている場合も、やることは同じである。人の意見に対して、ネット上で議論を戦わせる(とは言っても、多くの場合正面切ってはやらない。議論に負けることもあるからである。)ことを現代ではやりやすくなった。しかし、ここで注意したいのは、これらの発言の特徴は議論の域には達していないものが多いということである。
今回このウェブブックで取り扱う「人が自殺をするのは必ずしも悪いことではない」という主張も同様である。このように主張する人は、多くの場合議論に無理がある形で無理やり持論を展開するため、論点が不明確になることが多く、論理に飛躍があり、結果として現実から乖離し、墓穴を掘ることが多い。

3)いじめ問題の本質
 いじめ問題の本質は、自殺行為そのものにあるのではなく、社会的弱者に対する一方的かつ場合によっては集団的な攻撃を継続する特定の集団及び、その行為を見て見ぬふりをすることで実質的ないじめ幇助の立場を取る人間がいることにより、いじめの被害者が、継続的に「精神的かつ(または)肉体的かつ(または)経済的な苦痛及び不利益となる被害」を被ることにある。

4)議論の前提にメスを入れることと問題のすり替えの違い
 議論に熟達していない人は、この様な意見(自殺は必ずしも悪いことではない。)を聞くと、なるほどと思ってしまうこともあるようである。ここで注意したいことがある。物事の前提を疑うことは大変結構なことであるが、ここで行われている問いは、物事の前提にメスを入れているのではなく、『単なる問題のすり替え』である。

 「格差は悪いことではない」という主張も同様である。私は社会主義的な思想は持たないが、社会問題化する貧富の格差の問題を、単純な格差論とすり替えられて、「はいそうですね」と黙っているほどお人好しでもない。今世界で起こっている経済格差の不幸は、ノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・スティグリッツ教授がその著書で明らかにしたように、世界の統治機構のガバナンスに問題の本質がある。世界で特権を持ち、世界経済のルールを構築した一部の国家が、経済的弱者である国家と不適切なつながりを持つことで、一方的に経済的弱者の国家の国民が不利益を受け、その日に食べるものにも困窮し、餓死する人間が出ることもある。時間に換算すれば、2秒に一人と言われている。社会問題化している格差論が実質的に問題としている点は、公平性を前提として構築された社会システム(民主主義や自由経済を含む。)が実質的には公平性が担保されたものではなくなっているという不正義にある。格差の固定や教育格差等の人権にかかわる問題も然り。「格差は必ずしも悪いことではない」というのは、(言説そのものが間違っているわけではないことに注意したい。)議論の前提にメスを入れているように一見すれば見えることもあるが、実はそうではない。議論の前提は世の中に一つではないからである。

 

5)議論の前提は複数ある
 世界経済の中核を担う世界機関であるIMFや世界銀行及び一部の特権を持つ国家が、自国の利益のために他国の国民を間接的に搾取する構造が行き過ぎ、飢餓輸出のような不幸が起こる時、その問題の前提には以下のようなものがある。

・そもそも格差はあってはならないのか。(格差は必ずしも悪いことではない。)
・一部の国家が、他国の国民の生活基盤が根本的に脅かされる不正義となる決定を下す権利があるのか。
・不正が行われることが許されるのか。
・独立主権国家の集積の中で実質的に国際法で規定されないことがあれば、人は何百万人という人を経済的暴力で殺しても許されるのか。
・法律上合法ならば、人は何をやってもいいのか。
・人としてのモラルとは、どのレベルで保たれるべきものなのか。
・我々ができることは、本当に何もないのか。(対策可能性)
・法は本当に機能しているのか。網の目からこぼれ落ちる不幸はないのか。
・法の限界とは何か。
・我々はどのように法の限界に対処すべきか。
・社会正義というものをどのものさしで測ることが妥当なのか。(公益性、個人の権利、道義性)
・ハーバードのマイケルサンデル教授が唱えた正義の原理から、共通善を導くとすれば、どのようなものになるのか。
・今の時代の不正義が、将来より良い結果を導く可能性と度合いはどれほどか。
・何を議論の目的とするべきか。
・どの価値観を優先すべきか。

 このように考察の次元は、一国の経済、政治の次元にとどまらず、世界政治、世界経済、政治哲学、倫理、問題解決、問題発見、大小さまざまな次元で複数存在している。これらの多くの議論の前提の中で、一体どの議論の前提が重要なのか?という問いを無視して、一つの論点を取り上げて鬼の首をとったように、誰かが主張するとき、議論に弱い人は思考力を奪われ、実態から乖離した判断を迫られることも珍しくはない。格差社会の問題の本質とは、格差という問題の一部の前提にスポットを当てて、恣意的な意味付を漠然と行うことでは、明らかになったりはしない。格差社会の問題の本質とは、今この文章を書いている瞬間にも、食べるものが無く、命を落とす我が子を見送りながら涙を流している母親の苦悩そのものである。小利口な意味付を行い、(この母親の不幸は本当に不幸か)とクルクルと言葉遊びをすることではない。

 本質的な問題点とは、各種問題発生の構造を因子ごとに明らかにしていき、その問題が発生する仕組みを浮き彫りにすることで明らかになる性質がある。現象には必ず原因がある。

 いじめの問題も同様である。

 「自殺は必ずしも悪いことではない。」という言説はいじめを苦にした自殺をする若者が毎年減らないという社会問題に対する前提の一部を取り上げて意味付を行っているに過ぎない。実質的にはこの問題の前提はいくつもある。

 

《論点》 「救うことができるいじめ被害による命は救うべきだ」  
・いじめの問題を深刻に感じない他者に無関心な現代日本社会の特徴。
・他国に比して、見て見ぬふりをする比率が多い日本社会の問題。
・モラル意識の崩壊。
・いじめの動機の内大きなものは、愉快だからという実態。
・生徒が行ういじめを教師が笑いながら眺めており、いじめを苦に自殺した生徒が出た後、いじめはあったかどうか定かではないと言い張る教師が一部に存在する問題。
・学校ぐるみでいじめを隠蔽し、アンケートを行って回収した後、自殺した子供の保護者に「このアンケート結果は口外しないという念書を書いてください」と要求する学校が存在すること。
・いじめの対策可能性。(学校側、加害生徒側、被害生徒側、両親、教育委員会、等すべて)
・若い時分と年を重ねてからでは価値観や意識が違うこと。
・いじめを原因に自殺まで追い込んだいじめの実態の悪質性のレベルはどの程度か。
・少年法で自殺者を出したいじめ加害者を守るべきか。
・何を議論の目的とするべきか。
・どの価値観を優先すべきか。

 









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