ディジシステムの牛山がブログ的にお伝えする日記

 



こんにちは。牛山です。

先日細川茂樹さんの髪型を真似て、『今日のテーマは細川茂樹なの・・・』と事務員さんに言うと大爆笑されてしまった時の写真が上の写真です。

どこが細川茂樹なの?と・・いう声がたくさん聞こえてきそうなのですが、目を限りなく細めて、もう開いているのか開いていないのか分からないくらいに細めて見ると、シルエットだけしか見えなくなり細川茂樹さんに似て見えませんか?

 

 

 

 

 

 

 

 

ハイ。見えませんね 。(反省 猛省

 

 

それでは先日お伝えしました、小論文の投稿をしてくださった方がいますので、このテーマをみんなで考えるという意味でも、ここでご紹介したいと思います。



ここからは真面目に真剣にいきたいと思います。
投稿、ご協力ありがとうございました。

死刑制度の存置について、廃止について

【考察テーマ】

死刑制度はある方がいいのか、それとも無い方がいいのか。
あなたの意見を自由に述べなさい。


匿名希望様

 私は死刑制度は無い方がいいと思う。なぜなら死刑制度は人の命を奪うからだ。
 現在イスラム国では人質がとらわれ2人の命が奪われた。2人の命が奪われたことで家族や関わったことのない人でさえ2人の死に対して悲しみを抱いている。この2人は悪いことをしたわけでもなく、社会を良くしようと貢献してきたから皆が悲しむのも無理はない。しかし犯罪者にも家族がいる。もし自分の家族が犯罪者になり、その時に家族が死刑判決を受けたならどう思うだろうか。私にとってたとえ犯罪を犯して死刑判決を受けたとしても家族は家族であり辛い気持ちは変わらない。被害者の家族も命が奪われたりしていて悲しい気持ちや辛い気持ちはあるはずだ。死刑制度を取り入れた時点で悲しむ人が増えることに変わりはない。家族や友人を殺されてただ許すことはできないと思うが死刑にして犯罪者の家族である悪くない人まで悲しませるようなことはしてはいけないと思う。
 ではどうしたら死刑制度をなくした上で罪を問い被害者の家族の気持ちを救うことができるのか。そこで私は絶対的終身刑を取り入れるといいのではないかと思う。日本では無期懲役があるが、これは相対的終身刑であり、一生受刑者としての扱いにはなるものの社会に復帰することはできる。絶対的終身刑では社会に復帰することはできない。死刑となると罪の重さを理解せずに処刑されることにもなりかねない。罪の重さは犯罪者自身や犯罪者の家族、被害者自身や被害者の家族皆が理解することが必要だと思う。
 イスラム国の例を挙げたがそれ以外にも女子大学生がおばあさんを殺害したり親が子どもを殺害したりと最近では痛ましい事件が度々起きている。このように度々起きるのには命の重さを理解していないことや罪を犯した時の刑罰についてあまり知らないことも原因と挙げられると思う。
 罪の重さや命の重さ、今までで必ず何度も勉強してきたことのはずなのに皆がわかっていない。だからこそこのような痛ましい事件が多発する。罪の重さや命の重さを伝えるためにテレビなどを使うとただ講義で話を聞くよりもずっと頭に残ると思う。そして罪や命の重さを頭の中に十分に入れ、人種問わず多くの人理解を促すことでこれからの犯罪件数の軽減にもつながっていくのではないかと思う。
 以上より死刑制度を廃止し、絶対的終身刑を取り入れて命を大切に扱う世の中を作っていくべきだと思う。


匿名希望様

 私は、「ある方がいい」と考える。その理由は、被害者となられた方々の心象を想像すると、加害者に被害者と同様かそれ以上の苦しみを与える懲罰は必要だと考えるからである。実際に、凶悪犯罪とされる事例をみると、例えば、光市母子殺人事件、福岡市職員による飲酒運転による交通死亡事故などが想起される。光市の事例は、Mさんが不在の際、母子だけの居住状態において、未成年男性が住居侵入し、強姦した上に母子ともに殺害するという、前代未聞の凶悪なものであった。今一つは、地方公務員という立場にありながらも、道路交通法違反としての飲酒運転に加え、衝突事故を起こし、一家で同乗していた子どもが車ごと下の水中に落下し、幼児が亡くなったものであった。
 ここで、「無い方がいい」という主張に対する反論が提出されると思うので、それに対して意見を述べておきたいと思う。この立場の方が述べると想定される意見は、加害者といえども親鸞の「悪人正機説」という「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」というものである。つまり、凶悪犯罪者といえども、一定の反省をしさえすれば、もう一度被害者に謝罪をし、一生かけて被害者遺族に対して償いをすることで、被害者への罪を償うということの意義である。なるほど、そうした意見も傾聴に値するだろう。
 しかし、私はそれでも、「ある方がいい」と答える。筆者も、これまでの人生を振り返ると、全く被害者ではなかったことはなく、何回か被害者となってきた経験があるからである。被害者の目線から捉えると、事の重大さを重く感じるために他ならない。例えば、私が22歳のとき、交通事故に遭遇した。朝、就職活動で会社訪問をするため、自動車を運転して出かけたところ、渋滞にはまってしまった。前の車は2トントラックであった。その後、急ブレーキがしたと思ったとたん、目の前が真っ暗になり、衝撃音とパニックに陥り、車外に出ようと必死であった。爆発しないかどうか、とか、眼鏡が吹き飛んでしまったことなど、首の痛みもある中、必死に逃げたことを思い出す。また、朝4時台に毎回、倉庫に卸すトラックのゲートの音で起こされてしまい、これがストレスとなったため、痛風を患っていることが挙げられる。いずれも、自動車の関係した被害であるが、病気を罹患し、最悪の場合、生命を奪われてしまうような事態も起きるため、被害者の声をよく聴取した上ではあるが、死刑制度は「ある方がいい」と考える。
 他の事例を述べると、各種戦争が挙げられる。卑近な例では、イラク戦争が挙げられるであろう。これは、大量破壊兵器を所有している嫌疑があったため、アメリカやイギリス、日本が賛成して始まったものである。しかし、これはいつ終わるのか、全くわからないような状況、泥沼化してしまっている。戦争を始める際は、とんとん拍子に進むが、終わる際は、いつになるのか、想像できないほどに事態は悪化してしまう。日本の場合、憲法第9条が存在するため、いくら特別措置法が制定されたとしても、憲法の枠内での活動にならないと、「違憲」となってしまうであろう。多くの罪のない人たちの生命を奪った場合、武器を使用して殺害した責任はどうなってしまうのか。この戦争の責任者は、戦争犯罪人となるが、彼らの戦争責任はシビアに問われるし、共犯者も裁かれねばならないのではないか。
 以上のように、国内外で、身近な事件や事故からも理解されるように、程度の違いこそあれ、他人の人生を台無しにしてしまうことをしてしまった場合、どんな理由があろうとも、被害者の声を真摯に判決理由に汲み取る必要があることは確かなことではなかろうか。加害者にも人生はある、そう反論されることも承知している。また、冷酷なことを言う、と批判されることも理解している。それでも、この制度が無ければ、もっと凶悪な犯罪が将来的にも起きてしまいかねない、という危険性も払拭できないのである。かつて、I.カントは、『永遠平和のために』という本を書いたが、平和の礎は、他人の生命を尊重するところから始まる。他人の人権を擁護し、他人の迷惑になった場合は、心から謝罪し、けっして開き直ったり、ふてくされたり、無責任にそのまま時間が経過していってはならない。平和は永遠に継承されてほしいという、人類普遍の願いである以上、個人レベルであれ、地域レベル、国家レベルであれ、地球市民としての自覚の下で、被害者が救済される手段として残してほしい制度であると考える。間違っているかもしれないが、制度である以上、必要な国や時代というものはあると考える。その時代に必要だ、という意見が多ければ、残してほしい制度であるが、本当は無くしてもいい時代がくることを願う自由も与えてほしい、ともいえる。難しい問題に相違ないが、これまでの人生を振り返ると、このような答えにしかならなかった。これからも、この問題は賛否両論を残すであろうが、その議論の推移を見守りたいと思う。 (以上)

匿名希望様(同じ方が反対からも書いてくださいました。ありがとうございます。)

 「もし、死刑にしてしまった場合、加害者が十分に反省しないまま、この世を去ってしまったら、どうなのだろうか?」という立場で考えてみたい。すると、これまでの死刑囚はどうなのか、振り返ってみたい。既に亡くなっているため、現実的ではないが、卑近な事例を想起してみたい。
 第一に、宮崎勤死刑囚の存在が挙がるだろう。彼は、ロリコン、幼児趣味で、自宅にひきこもって犯罪を犯した人物であった。彼への死刑は執行されてしまったので、「無期懲役」ということは非現実である。仮に、この判決であれば、彼は更生したであろうか。被害者のご両親に対して、一生かけて償う人物であれば更生に意義を有する。彼の場合、趣味が高じて犯罪となったのだろうか。
 第二に、宅間守死刑囚の存在が思い出される。彼は、エリートの子弟をターゲットに、無差別殺傷事件の典型事例となった。誰も校門から授業時間中に、そのような人物が侵入し、残虐行為をするとは想像に絶することであった。思いこみが高じたものともいえるだろうが、彼のエリートに対する反感は尋常なものではなかったように思われる。これがために、その後の学校には監視カメラが設置され、学校の登下校の際には、保護者やボランティアが見守ることとなったことは言うまでもない。
 次に、サカキバラ事件である。彼は、まだ未成年であったが、子どもをターゲットに猟奇殺人を行った。彼は死刑になっていない。それは、当時の法律で少年法の適用年齢を下回っていたことが影響した。彼は、実社会で更生していると思われる。つまり、前例の2人は成人であったが、彼は犯行当時、未成年であり、死刑宣告はされなかったという事情がある。
 では、死刑制度がなかった場合、全ての凶悪殺人者が無期懲役で獄中にて懺悔の日々を送ることに問題はないのだろうか。獄中へ被害者の遺族が赴き、謝罪の対話を交わすこともあったかもしれない。手紙や文面での犯罪者からの謝罪に加え、どのような人物が被害者遺族への反省が面談で可能となるのか。仮に筆者であったなら、ありていではあるが「お前もうちの○○と同じように△△な目にあってから死ぬがいい」などという言葉も口走ってしまいかねない。それほど、加害者に対する怨恨は被害者の立場からすれば考えられる。
 既に、死刑制度があって死刑が執行されてきた国であるため、今後、死刑制度が廃止された場合、加害者がどのように更生し、被害者への謝罪、補償をしていくのかがポイントとなってこよう。凶悪犯罪者の意思を先ず尊重する必要がある。彼/彼女がそれでも「死刑でいいです」と認めれば、それも認める必要がある。完全に、選択できないほどの制度廃止であれば、無期懲役を選択せざるを得ないが、実社会には二度と出てきてほしくない、というのが被害者遺族の考えとして大半を占めるのであれば、死刑廃止後の社会状況も想定した上で、死刑廃止を決定しなければなるまい。(以上)

匿名希望様(同じ方が反対からも書いてくださいました。ありがとうございます。)

 「もし、死刑にしてしまった場合、加害者が十分に反省しないまま、この世を去ってしまったら、どうなのだろうか?」という立場で考えてみたい。すると、これまでの死刑囚はどうなのか、振り返ってみたい。既に亡くなっているため、現実的ではないが、卑近な事例を想起してみたい。
 第一に、宮崎勤死刑囚の存在が挙がるだろう。彼は、ロリコン、幼児趣味で、自宅にひきこもって犯罪を犯した人物であった。彼への死刑は執行されてしまったので、「無期懲役」ということは非現実である。仮に、この判決であれば、彼は更生したであろうか。被害者のご両親に対して、一生かけて償う人物であれば更生に意義を有する。彼の場合、趣味が高じて犯罪となったのだろうか。
 第二に、宅間守死刑囚の存在が思い出される。彼は、エリートの子弟をターゲットに、無差別殺傷事件の典型事例となった。誰も校門から授業時間中に、そのような人物が侵入し、残虐行為をするとは想像に絶することであった。思いこみが高じたものともいえるだろうが、彼のエリートに対する反感は尋常なものではなかったように思われる。これがために、その後の学校には監視カメラが設置され、学校の登下校の際には、保護者やボランティアが見守ることとなったことは言うまでもない。
 次に、サカキバラ事件である。彼は、まだ未成年であったが、子どもをターゲットに猟奇殺人を行った。彼は死刑になっていない。それは、当時の法律で少年法の適用年齢を下回っていたことが影響した。彼は、実社会で更生していると思われる。つまり、前例の2人は成人であったが、彼は犯行当時、未成年であり、死刑宣告はされなかったという事情がある。
 では、死刑制度がなかった場合、全ての凶悪殺人者が無期懲役で獄中にて懺悔の日々を送ることに問題はないのだろうか。獄中へ被害者の遺族が赴き、謝罪の対話を交わすこともあったかもしれない。手紙や文面での犯罪者からの謝罪に加え、どのような人物が被害者遺族への反省が面談で可能となるのか。仮に筆者であったなら、ありていではあるが「お前もうちの○○と同じように△△な目にあってから死ぬがいい」などという言葉も口走ってしまいかねない。それほど、加害者に対する怨恨は被害者の立場からすれば考えられる。
 既に、死刑制度があって死刑が執行されてきた国であるため、今後、死刑制度が廃止された場合、加害者がどのように更生し、被害者への謝罪、補償をしていくのかがポイントとなってこよう。凶悪犯罪者の意思を先ず尊重する必要がある。彼/彼女がそれでも「死刑でいいです」と認めれば、それも認める必要がある。完全に、選択できないほどの制度廃止であれば、無期懲役を選択せざるを得ないが、実社会には二度と出てきてほしくない、というのが被害者遺族の考えとして大半を占めるのであれば、死刑廃止後の社会状況も想定した上で、死刑廃止を決定しなければなるまい。(以上)

匿名希望様

 死刑制度について、基本的には反対なのだが、今の日本においては賛成せざるを得ない。
 なぜなら、死刑の次に重い刑期は無期懲役であるが、これは、模範囚であれば、10年ほどで、シャバに出てくることになってしまうからだ。

 ここ最近の犯罪を見ていると、とても人間とは思えないような鬼畜の所業が多々あり、このような犯罪を犯した者が、10年ほどで社会に戻ってくると想像するだけで、ゾッとしてしまう。このような犯罪者が、10年ほどで改心するとは思えないし、被害者や遺族の心情を考えると、それはあまりにも軽い罰である。かといって、死刑にしてしまえば、自分の犯した罪を悔い改める時間もあまりなく、また、被害者と同じ時間を反省と悔恨の気持ちとともに過ごすという、精神的な苦行をすることもなく、ある意味『逃げる』ような形でこの世を去ることになってしまう。

 そう考えると、私はアメリカの刑の決め方が良いように思う。死刑の次に重い罪が無期懲役ではなく、何百年という刑期が言い渡されることがあるからだ。これならば、重い罪を犯した者であれば、たとえ模範囚であっても、多少の恩赦が下っても、決して放免になることはない。これならば、死刑にされなくても気づかないうちに社会に出て来ているという心配もないし、犯人には一生反省する時間を与えることができる。近年何件かあった、『自殺する勇気がないから、人を殺して死刑にしてもらおう』などというふざけた犯罪の抑止力にもなるし、遺族感情にもそれなりに応えられる。

 死刑の次は無期懲役というのではなく、人の寿命とは全く関係なく、その罪の重さに呼応した刑期を判決として出すというシステムに変えた後に、やはり命を奪うという野蛮な刑の執行は、止めていくべきなのではないかと、私は考える。

匿名希望様

 現在から約二十年前に国連総会において、死刑廃止条約が発効された。日本はこの条約に対して反対の態度を表明している。このため、日本は死刑を行うことに対して国際社会から強い批判を受けることがあるが、現在もこの条約に批准していない。国際的に死刑廃止が行われている中で、日本の社会に死刑制度が必要な制度であるのかを考えていかなくてはならない。
 日本における死刑制度の適用範囲として、殺人や強盗殺人などの凶悪な罪や放火などの国家社会に重大な法益を犯す犯罪に限定されている。確かに、死刑制度が存在することで、このような犯罪を減少させることができる。それは、死刑という刑罰が、犯罪を行おうとする者を威嚇することにより犯罪が抑止されるからである。しかし、死刑を行うことは国家が公然と殺人を行うことであり、殺人を否定する国家の立場と矛盾するのである。よって、死刑制度は廃止されるべきである。
 なぜなら、どのような重大な罪を犯した者の人権であるとしても、国家にその人権を否定することはできないからだ。これは、日本国憲法に基本的人権が定められているためである。また、仮に誤った判決により死刑を行ってしまった場合に、取り返しをつけることができないからだ。最近において、何十年前に殺人事件の犯人として逮捕され有罪とされていた人が、現在になり無罪であることが判明した。もし、この人が死刑判決を受け、死刑が行われていたとすれば、誰にもどうすることもできない大きな社会問題である。このようなことは決して許されることはないが、誰もこの責任を果たすことはできないのである。
 このように死刑を執行することは無実の人を殺害することにつながる恐れがある。死刑を刑罰とするのではなく、凶悪な罪などを犯した者の罪の償い方を新たに考えていく必要がある。凶悪な罪などを犯した者を死刑にしたとしても、罪を償ったことには決してならないのである。

匿名希望様

世界各国で死刑制度の廃止の流れがあるなかで、日本も死刑制度を廃止すべきか。
 私は死刑制度は廃止すべきでなく、ある方がいいと考える。なぜなら死刑制度の意義は第一に、罪を犯した者への罪自体への償い、第二に、世の中への見せしめ、第三に、被害者や遺族の気持ちを汲み取ることであるからだ。
 たしかに、死刑制度には免罪の可能性があったり、実際に死刑制度を無くしたからといって、凶悪犯罪の数が変わらなかったというデータがあるが、免罪は慎重な審議や裁判員制度の導入によって防ぐことは可能であるし、凶悪犯罪の数が変わらなかったというデータも、日本と西洋の文化の違いにより、必ずしも同じようになるとは限らない。それは、日本は旧来の武家社会に根づいた命の捉え方、つまり、自分が犯したことへの罪は自分の身で負うべきで、第三者もそれが当然であると考えている。また、西洋は性悪説に基づくキリスト教に根づいた、懺悔をすればその罪は免責で、その人間は生まれ変わることができ、その可能性を絶つような死罪はいけないと考えている。
 そのような文化の違いもあるので、私は、世界各国で死刑制度が廃止になっているからといって、日本も廃止にする必要はなく、日本人の死刑への意義を考慮し、死刑制度はある方がいいと考える。

匿名希望様

死刑制度は廃止されるべきか考えてみたい。
 確かに死刑判決を受ける犯罪者は他人の人権を踏みにじったのだから、犯罪者の人権も無視されて当然と考えることはできるだろう。また、被害者遺族の感情を考慮すると犯罪者を生かしておくことに怒りを覚える場合が多々あるだろう。しかし、私達は、法を感情ではなく、理性によって扱わねばならない。私は二つの点から死刑制度は廃止されるべきであると考える。
 一つ目は、人間が人間を裁く場合、死刑という手段を用いるべきではない、という点だ。他人の人権を踏みにじった犯罪者といえども、法によって犯罪者の人権は守られている。犯罪者である以上自由の拘束は認められても、一人の人権を有する人間の、人権の根本である、生きる権利まで奪う権利を国家は持つべきではないだろう。また、刑に服役させると言うことは、罰を与えると同時に、犯罪者の更正という目的も含まれている。社会復帰は望めなくとも、死刑に処さずに刑務所内で更正させる機会は十分に与えるべきだ。
 次に、二つ目の点として、冤罪の可能性という点について論じる。近日、足利事件の犯人とされ、長年刑務所に入っていた人が無罪と証明されたようだ。このことからも法が完璧でないことが分かる。さらに昨年から裁判員制度が始まった。この制度の目的の一つは、裁判に市民の視点を取り入れることだ。
 もちろん、この制度に利点はあるだろう。しかし、市民は法の専門家ではない以上、裁判を客観的に見ることが出来ずに情が入り込み、大小はあるにせよ、主観が入ってしまうことは止められない。この為、少なからず裁判員制度によって冤罪の可能性は高まってしまうだろう。このように、法が完璧ではなく、冤罪の人を死刑にするという取り返しのつかない可能性を含む死刑制度は廃止すべきだろう。正義を担う法が、罪の無い人を殺してしまうことほど不正義なことはないだろう。
 もちろん、大罪を犯した犯罪者を社会復帰させるわけにはいかない。死刑制度の変わりに、終身刑の導入を考えるべきだろう。終身刑の導入によって極刑を宣告された犯罪者にも生涯をかけての更正を促せるし、冤罪の場合にも死刑を執行してしまうより過ちは少なくてすむ。
 したがって、死刑制度は廃止されるべきだと私は考える。

匿名希望様

現在日本が採用している死刑制度は存続させるべきだろうか。それとも廃止すべきであろうか。
 死刑制度がもたらすメリットはそれがもたらすデメリットよりも大きな価値を持つものなのだろうか。
 私は死刑制度を廃止すべきであると思う。
 その理由は二つある。まず一つ目は誰かを死刑にするためには別の誰かが殺人を犯さなければならないということだ。確かに執行人が分からないようにという配慮はなされているかもしれないが、だからといって自分が人を殺したかもしれないという気持ちは一生残るものである。そのことがその人の心に多かれ少なかれ影を残すことは免れられないであろう。死刑判決の下るような事件でたくさんの人が傷ついた後、さらにその傷を増やすことなどあってはならないと思うのである。
 二つ目は刑罰としての死刑の過重さである。人の命を奪う権利など誰にもないということは誰もが教えられてきたことだと思うが、それを差し置いたとしても死という罰は用意されていなければいけないものだろうか。
 時には加害者が死刑にならなければ犯した罪にみあわないこともあると考える人がいる。しかし死刑がみあう罪などあるのだろうか。殺されることで何が償えるというのだろう。被害者やその関係者の恨みが晴らされるということだろうか。しかし恨みを晴らしたいからといって殺人を正当化することはできない。どんなに深く誰かを恨んだとしてもそのことによる殺人が認められてしまったら、社会はなりたたなくなってしまう。この理由で死刑制度を認めることはできない。
 罰を重くすることが犯罪の抑止力につながると考える人がいる。確かにそういう効果もあると思う。しかしそもそも犯罪はどうして起こるのだろうか。お金がないから窃盗、強盗。ストレスからの暴行事件。かっとなったから人を殺す。色々理由はあるだろう。しかし犯罪が起こったとき、その背景と共に問われるのはその人自身の背景である。生活環境はどうか。子供の頃どのように育てられたか。人間関係はどうか。精神状態はどうか。すると何かしら問題が出てくるのである。本当に幸せな人間はあえて自分から罪を犯すようなことはしない。罪を犯す人間は何かしら問題を抱えているものであり、犯罪が増えるということはそれだけ不幸せな人間が増えているということなのである。そして不幸せな人間がなぜ増えるのかと言えばそれは社会のシステムに不具合が生じているからだろう。市民に社会システムが適合していれば統計的に不幸な人間が増えていくはずがないのだ。それを罪を重くすることで無理に抑えつけてしまったらどうだろう。頭痛を鎮痛剤で無理やり鎮めてなかったことにするようなものである。根本の問題の解決はなされない。しかし社会に不具合が生じている以上いつかはその問題の解決がなされなければならないのだ。死刑制度まで導入して力で抑えつけても、問題が未解決のまま深刻化していけば結局は抑止しきれなくなっていくものだ。実際に死刑が執行されたことがあるということが何よりもそれを示しているのではないだろうか。死刑の持つ抑止力にも限界はある。あまりあてにできるものではない。犯罪を減らしたいのなら、私たちは死刑制度を取り入れるよりもむしろ、社会問題に取り組む姿勢を本気で見直すべきではないだろうか。
 以上の理由からわたしは死刑制度を廃止するできであると思う。

匿名希望様

現在日本が採用している死刑制度は存続させるべきだろうか。それとも廃止すべきであろうか。
 死刑制度がもたらすメリットはそれがもたらすデメリットよりも大きな価値を持つものなのだろうか。
 私は死刑制度を廃止すべきであると思う。
 その理由は二つある。まず一つ目は誰かを死刑にするためには別の誰かが殺人を犯さなければならないということだ。確かに執行人が分からないようにという配慮はなされているかもしれないが、だからといって自分が人を殺したかもしれないという気持ちは一生残るものである。そのことがその人の心に多かれ少なかれ影を残すことは免れられないであろう。死刑判決の下るような事件でたくさんの人が傷ついた後、さらにその傷を増やすことなどあってはならないと思うのである。
 二つ目は刑罰としての死刑の過重さである。人の命を奪う権利など誰にもないということは誰もが教えられてきたことだと思うが、それを差し置いたとしても死という罰は用意されていなければいけないものだろうか。
 時には加害者が死刑にならなければ犯した罪にみあわないこともあると考える人がいる。しかし死刑がみあう罪などあるのだろうか。殺されることで何が償えるというのだろう。被害者やその関係者の恨みが晴らされるということだろうか。しかし恨みを晴らしたいからといって殺人を正当化することはできない。どんなに深く誰かを恨んだとしてもそのことによる殺人が認められてしまったら、社会はなりたたなくなってしまう。この理由で死刑制度を認めることはできない。
 罰を重くすることが犯罪の抑止力につながると考える人がいる。確かにそういう効果もあると思う。しかしそもそも犯罪はどうして起こるのだろうか。お金がないから窃盗、強盗。ストレスからの暴行事件。かっとなったから人を殺す。色々理由はあるだろう。しかし犯罪が起こったとき、その背景と共に問われるのはその人自身の背景である。生活環境はどうか。子供の頃どのように育てられたか。人間関係はどうか。精神状態はどうか。すると何かしら問題が出てくるのである。本当に幸せな人間はあえて自分から罪を犯すようなことはしない。罪を犯す人間は何かしら問題を抱えているものであり、犯罪が増えるということはそれだけ不幸せな人間が増えているということなのである。そして不幸せな人間がなぜ増えるのかと言えばそれは社会のシステムに不具合が生じているからだろう。市民に社会システムが適合していれば統計的に不幸な人間が増えていくはずがないのだ。それを罪を重くすることで無理に抑えつけてしまったらどうだろう。頭痛を鎮痛剤で無理やり鎮めてなかったことにするようなものである。根本の問題の解決はなされない。しかし社会に不具合が生じている以上いつかはその問題の解決がなされなければならないのだ。死刑制度まで導入して力で抑えつけても、問題が未解決のまま深刻化していけば結局は抑止しきれなくなっていくものだ。実際に死刑が執行されたことがあるということが何よりもそれを示しているのではないだろうか。死刑の持つ抑止力にも限界はある。あまりあてにできるものではない。犯罪を減らしたいのなら、私たちは死刑制度を取り入れるよりもむしろ、社会問題に取り組む姿勢を本気で見直すべきではないだろうか。
 以上の理由からわたしは死刑制度を廃止するできであると思う。

匿名希望様

 近年、世界のいたる所で犯罪が起きている。死刑判決を下される犯罪者も沢山いる。果たして、死刑
 制度はある方がよいのだろうか。それとも無いほうがよいのだろうか。
 私は死刑制度はない方が良いと考える。 ある人は死刑制度がないと犯罪の抑止力が無くなってしまうと主張するが、果たして本当に死刑が犯罪者の抑制に繋がるのだろうか。死刑判決を受けるような犯罪者が犯罪を起こす時、まともな理性があるのかといえばそうではない。
 また誤審の可能性はどうだろうか。誤審によって何も罪を犯してない人が何年もの間刑務所に入れられていたというのを良く聞く。いわゆる冤罪である。それは取り返しのつかない事になるだろう。さらに日本で裁判員制度が導入され、法律など全く知らない一般人が裁判所に出向き判決を下して人の人生を左右するような判断をしなければならない。それも 私は反対である。
 さらに殺人を罪と知っている国家が犯罪者を死刑判決によって殺してしまうというのは矛盾する事だといえる。国家が単に犯罪者を死刑にする事で全て解決できたと思うのは間違いだといえる。それは私の身近なところでは学校で違反した者は即退学させられ終わりという事と同じである。その生徒を更生させてこそ教育の場である学校の仕事だと思うからである。 このような理由から私は死刑制度は廃止した方が良いと考える。しかし犯罪が無くならない現在の日本では、被害者の事についてももっと学んでいかなくてはならない。被害者の気持ちを伝える場や今後の生活をサポートしていくための制度などを設けて被害者の救済を援護をしていかなくてはいけない。単に死刑制度に賛成か反対かを議論するだけでなく、被害者と加害者の今後の在り方について検討していく必要があるだろう。

匿名希望様

 現在の日本は、絞殺刑による死刑制度を採用している。「重大な殺人による被害者の死には、死をもって償うべき」という考えがあるからだ。しかし、私はこの制度に反対で、死刑制度は無いほうがいい、と考える。
 そもそも死刑とは、国家権力による殺人である。その存在意義は、被害者や遺族の恨みを晴らすためや、殺人に対する応報のためだ。確かに死刑は、社会の一般人に対しても、「人を殺すと死刑になるかもしれない。」という一種の予測可能性を担保し、犯罪を予防することができる。しかし、それらは国家権力による殺人を正当化する理由に過ぎないのではないだろうか。実際の死刑執行の現場では、死刑囚の顔に布を被せ、ロープを首に通す。次に、複数の警察官がそれぞれのボタンを同時に押す。そのうちのどれか一つが死刑囚を落下させるボタンで、そのボタンによって絞殺刑が執行される。警察官にとっては、自分が押したボタンが直接的に殺人に関与したかはわからないが、「もしかしたら自分の押したボタンが原因で人を殺してしまったかもしれない。」と良心の呵責が生まれ、警察官に大きな精神的負担が生じるおそれがある。また、遺族にとっても、死刑によって報われるとは一概には言い切れない。死刑になってしまえば、殺人犯の身体的な苦しみは一瞬で終わる。遺族によっては、「一生かけて罪を償ってほしい。」、「社会的制裁を死ぬまで受けてほしい。」と考える人たちもいる。
 以上より、死刑制度はないほうがいい、と私は考える。死刑制度によって、重大な殺人を犯したものには、死をもって償わせることで、被害者も遺族も報われ、社会の犯罪の予防にも繋がるんだといって、国家権力による殺人を正当化するべきではない。殺人犯には、一生をかけて罪を償わせることで、被害者や遺族も真に報われると思う。殺人犯に対しても十分に反省する機会を与えることで、自分がやったことに対する報いを受けることができるはずだ。


牛山は感動しました。
それぞれの小論文がそれぞれの視点で非常に社会性の高い内容になっています。

それでは、私の解答例を掲載しておきます。

賛成、反対のどちらが正解というわけではありません。試験合格ということに関して言えばどちらでもいいと一般的には言われています。

牛山の解答例 (反対版)

賛成版は下にあります。

 死刑制度はあった方がいいのだろうか。私は、特別なケースを除き、無い方がいいと考える。理由は以下の通りである。
 死刑制度の是非についての各論は次のようなものである。犯罪抑止効果、犯罪被害者感情、人命に対する尊重等が、重要度が高い項目であろう。この内どの議題を優先すべきであろうか。つまりこの問題は、法が何を重視すべきかという人間が作る法の枠組みの問題である。法は何を前提とすべきかは、国の最高法規である憲法を参照すれば分かる。少なくとも法の基本的な精神とは、すべての国民を例外なく公平に扱うものである。死刑制度をめぐる各論的な検討は、公平性という立法段階における大前提が無ければ、検討のしようがない細目の検討課題である。
 法はまず『公平性』という前提があり、整備され得るものであり、『公平性』が欠如した法議論は法が法たる所以を失った空理空論であると言えよう。この『公平性』という概念が死刑制度には欠落している為、私は死刑制度は廃止すべきであると考える。
 死刑制度が公平性を欠いている理由は、犯罪者本人が選択不可能な犯罪者の出生環境を考慮しているとは言い難い為である。なぜ出生環境を考慮していないと私は考えるのか。その理由は精神構造は両親からの先天的な気質と環境の相互作用によって形成される為だ。主要な精神構造形成要因は3点であり、1、本人の人生での連続する選択2、両親から受け継いだ遺伝的要因3、出生発育環境(経済的要因、家族構成、周辺人間環境を含む)である。確かに1は本人に帰責性がある。しかし2と3は本人には、人種や肌の色と同じで選ぶ事ができず本人に帰責性が存在しない。身体的障害に似たハンディキャップとも表現できよう。民主主義の法治国家にあって、アドバンテージを有さない先天的弱者を保護するどころか、極刑によって裁くのが死刑の制度である。1は出生環境に該当しないが、2と3は出生環境に該当する。社会学的な見地から言えば、人間は出生の土地、時代、性別、家族構成、住環境等、分かりやすく換言すれば運命という名の出生環境の影響を受ける事により極めて大きく行動パターンと思考プロセスが変る生物である。つまり、例外的な環境に生まれた赤子から成長を遂げた青年を死刑にする事は、その法を整備する国家の法は大きく公平性を欠くという事になる。EUがEU連合への加盟の条件に死刑廃止を定めている理由はここにある。不幸な環境に生まれた赤子を死刑にすべきではないのと同様に不幸な環境で育った青年や大人を死刑という極刑で人間が裁くことは、法を作ってもいいという国民の許可の前提となっている公平というルールを根底から否定するものである。なぜならば死刑は社会からの『隔離』ではなく、『存在の全否定』 であるからだ。このような許容範囲を大きく超えた刑の整備は、とうてい公平性を有するものとは言えず、国家が社会秩序を維持する為の法としてバランスの取れたものとは言えない。絶対的な帰責性が無ければ絶対的な刑の執行は無いというのがバランスが取れた法制度ではないだろうか。
 従って私は、死刑制度を廃止し終身刑の適用範囲を広げる事を提案したい。死刑制度の肯定は統治の枠組みを、精神構造形成に関して運のいい環境に生まれた大多数の人間にとって有利な形に構築する事と同義であり、公平性を前提とする法が不公平となる自己矛盾に近い制度であると同時に人道的にも許されない事であると考える為である。
 最大多数の最大幸福とは、為政者の判断の為の材料であり、為政者が為政者たり得る法を作り上げる際に前提となる国民の総意ではない。以上、私は死刑制度を廃止すべきだと考える。




《解説と考察》
立教大学の教授であり、精神科医の香山リカ氏は
個々のケースの背景に時代や社会の病理を見ようと試みるのも、また私たち大人の義務なのではないか?
と社会学的な見地から、新聞への寄稿文で述べている。

私も同感だ。
コミックやテレビゲームやドラマ、映画では、ストーリーが分かりやすく語られる。
正義と悪という二つのグループだけが織り成すドラマは見ている側にも爽快で気持ちのいいものだ。
自分は正義の立場を常に取ることができるからだ。

しかし虚構の世界ではなく現実の世界ではどのような凶悪犯でも、赤子の頃から凶悪犯ではない。
虚構の世界では登場した段階から悪役かもしれないが、生まれた瞬間から悪役のような人間はいない。
環境に染まる、周囲の状況に染まる、あるいはそれを自ら選択する事によって個々の人格が作られると
すれば、社会学的な見地を無視して論じることは現実を無視していると取られても無理は無いのではないか?
自分たち大人に責任は一切無いと決め付けているのではないか?

次のような話がある。

自分の母親を殺した少年がかつていた。
なぜ自分の母親を殺したのか?
彼の気持ちなど分かりたくもないと思うかもしれないし、死刑にすべきだと人は言うかもしれない。
彼はどんな気持ちで自分の母親を殺したのか?
幸せな人生は彼には無かったのか?
彼の判断能力は適切だったのか?
彼の気持ちには微塵もつらい感情や、何かにおびえる心情は無かったのか?
悪というレッテルを彼に貼ることは簡単だ。
しかし現実には人間の人格は先天的な遺伝子的な気質と、環境の相互作用によって作られるという。
この刑務所に入れられている時、横浜国立大学の堀之内教授は、最初の第一声で、彼に次のように語りかけたそうだ。

『 君にはそうするしか無かったんだね』
もちろん教授は犯罪者を擁護しているのではなく、そうなるまでの精神構造形成過程を熟知した上で
精神疾患に陥ってしまった少年を傷つけないよう、最大限に配慮した為だと思われる。

命を奪った人間は命で償うべきという報復論は、犯罪に手を染める加害者の不条理な人生を考慮
しないものかもしれない。犯罪の被害者も加害者も、我々も、不条理な世界の住人であるという事を前提として
物事を考える必要があるのかもしれない。

どちらが妥当なのかは多くの人が議論のテーブルにつき、考え主張する事でしか分からない。
もう一度様々な観点から考えておきたいテーマである。

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さて、今回の『死刑制度の是非』は、実は一昨年前に私が教え子の為に用意していた問題でもあります。
ですから上記の解答例は、昨年慶應大学の総合政策学部に合格した中村君等は持っているんですね。

 

今回あらたにもう一度考えてみたのですが、その時、ほっかほか弁当の野菜炒め弁当のにんじんをボリボリかじりながら

 

あーでもない、こうでもないとセルフディベートをしていました。

 

セフルディベートと言うのは自分が出した結論に対して自分で反論を加え、また自分でそれに対して反論するというまさに一人二役の芝居をするような技法です。

 

このセルフディベートを行う事によって、論理の穴をなくしやすく反論を防ぎ易くなると言われています。

 

今回の場合は、私の答案は公平性を論拠としているわけですが私が野菜炒め弁当をボリボリやっている時に出てきたのはこんな内容です。

 

--------牛山の頭の中のセルフディベート----------------------
相手さん『あんたは公平性が大切っていうけど、本当に法を用意するにあたって、公平性が重要なんかい!えーーー!!どないやねん!』

 

牛山『じゃあ、な・・・何が大切なんですか(汗)』

 

相手さん『・・・・知らん』

 

--終了--

 

--------牛山の頭の中のセルフディベート----------------------

 

という風にあっという間にセルフディベートは今回に関しては終ってしまいまして(アホやん)

 

・・・ということは、憲法が重視するのはなあに?という思考になり、

 

憲法の趣旨ってそういえば何なんだろう?

 

という疑問にぶち当たったんですね。
それで、死刑制度に関しても恐らくは憲法解釈の判例があるのではないかと思い、ソッコーでネット検索してみると出てきました。↓憲法に照らして、死刑制度そのものが違憲であると論じた弁護士が過去にいたんですよ。

 

しかし負けてしまったようです。↓

 

《死刑制度合憲判決事件》
死刑制度合憲判決事件(しけいせいどごうけんはんけつじけん)とは、日本において日本国憲法施行後に死刑制度の存在は憲法違反であるか否かが最高裁判所で争われた刑事裁判である。判決自体は死刑制度は合憲とされ上告棄却(死刑確定)になったが、この憲法解釈が現在も死刑制度存置の根拠とされている。

 

最高裁判決 [編集]
最高裁裁判官11人による大法廷は、1948年(昭和23年)3月12日に日本国憲法の主旨と死刑制度の存在は矛盾せず、合憲であると判決し上告を棄却して死刑判決が確定した(最(大)判昭和23年(1948年)3月12日刑集2巻3号191頁)。

 

判決文では「生命は尊貴である。一人の生命は、全地球より重い。…日本国憲法第13条においては、すべて国民は個人として尊重せられ、生命に対する国民の権利については、立法その他の国政の上で最大の尊重必要とする旨を規定している」としているが、その反面「公共の福祉に反する場合には、生命に対する国民の権利といえども立法上制限乃至剥奪されることも当然予想している」として無制限ではないとした。
また「日本国憲法第31条において、国民個人の生命であっても法律の定める適理によって、これを奪う刑罰を科せられることが定められている」とした。そのため日本国憲法は刑罰としての死刑制度存置を想定したものであり、是認しているから合憲であると判決した。

 

以上ウィキペディアより引用
http://ja.wikipedia.org/wiki/死刑制度合憲判決事件

 

そうすると、憲法に関する最高裁の判決では、その結論の論拠は、公共の福祉にあるようです。
つまり、公共の福祉を重視するから、死刑制度は存続させてよい

 

というのが結論になります。

 

もう100年ほど前の判決ですが最高裁の判決の為、現在でも影響力があります。

 

そこで私はさらに、詳しく知りたいと思いました。本当にこれでいいのかなと思ったからなんですね(笑)
最高裁の判決に満足しないなんて相当私もアホなんではないかと思うんですが、真理の探究の為にこそロジックはあるのではないかと疑っていない私としては、やはりそこは考えてみたくなりました。

 

そうするとですね。東京大学の名誉教授の本の引用にたどりついたんです。

 

ところで、憲法の前提ってなんなんでしょうか?

 

憲法の前提とは、
憲法の趣旨です。

 

法律というのはその全ての分野において、立法趣旨というものがあります。これが太い幹の部分であり、この大目的の為に枝葉の条文が作られ細かなルールができるわけです。例えば知的財産権であればその究極的な目的は日本国家の産業が技術の累積的進歩により発展する事です。

 

だからこそ特許というのは期間があり、独占権は切れていづれはその内容が全ての人に共有される、つまり日本中の会社がその技術を使ってもよくなるわけです。そうする方が産業は発展しますからね。

それで私は、ちょっと気になりましたので、横着をしまして(笑)図書館に行かずにインターネットで憲法の趣旨を検索してみました。

 

そして次のようなページを見つけたんですね。そうするとどうも憲法の立法趣旨は、本質的には国民の権利保障を究極目的としているそうなんです。

 

以下
http://questionbox.jp.msn.com/qa986461.html
のページより引用

 

------------引用-------------------------------------------

 

前置きが長くなりました。結論をはっきりさせましょうね。 
「日本国憲法」をはじめとする「近代憲法」は、何のために作ったのか? つまり、「近代憲法」の立法趣旨(立法目的)は、何なのか?

 

 尊敬する故・芦部信喜先生(東京大学名誉教授)の本から、「憲法」の立法趣旨(本質)を引用しましょう。

 

 「憲法が、国家権力を制限し、一定の権能を各国家機関に授権する法、制限し授権することによって人権を保障する法、であるところに本質がある」(以下、省略。)

 

--------------引用-----------------------------------------

 

つまり、東京大学の名誉教授によれば憲法の趣旨は以下の3点であるという事らしいのです。

 

1、権力を制限し、
2、一定の権能を各国家機関に授権する
3、制限し、授権することによって人権を保障する

 

文脈から判断すると3番が目的のように思います。

 

そうすると憲法というのは人権保障を第一義とした法ではないのかという解釈ができます。

 

公平性と、公共の福祉のどちらが人権保障に近い考えであるのか?

 

私は公平性ではないかと考えますが、皆さんはいかがでしょうか?

 

人権保障とは何を前提としているのか、

 

公平性あっての人権保障なのか、それとも公共の福祉あっての人権保障なのか、

 

私はこれをイメージで考えてみました。

 

------------------------------------------
まだ文明も何もない1000人の村があり、これから法律を作ることになりました。
村人を集めて村長が言いました。これから法律を作る。
案が二つある。

 

1つは最大多数の最大幸福を優先する法律
2つめは、公平に平等にルールが適用される法律

 

どっちがいいか?

 

私牛山なら、公平に平等にルールが適用される法律を望みます。それこそが私の人権保障につながり子供の人権保障につながると考えるからです。

 

ちょっとした不運に見舞われて、悪い環境に自分の子供が生まれた時に何かの間違いで悪いことをしてしまい、そして死刑になるかもしれないとしたら、余計に公平性を重視した法律を望むでしょう。
------------------------------------------

 

そうすると、最高裁判所での決定はおかしいのではないか。
死刑制度は廃止すべきなのではないか。

というのが、現時点での私の考えです。

しかし、それは安易な考えかもしれません。
以下の様な死刑制度がある方がいいという小論文も書いてみました。

 


牛山の解答例  賛成版

 死刑制度はあった方がいいのだろうか。それとも無くすべきだろうか。
 私は死刑制度の存置に賛成である。私が死刑制度の存置に賛成である理由は、二点である。一点目は法の究極的な使命である社会正義の実現にあり、二点目は国の最高法規である憲法が本質的に目的としている人権保証の最大化にある。
 以下になぜこれらの二点が死刑制度の存置によって現実になり得るのかについて述べたい。死刑制度の是非に関する各論は、犯罪抑止効果、犯罪被害者感情、人命に対する尊重等が、重要度が高い項目であろう。この内どの議題を優先すべきであろうか。つまりこの問題は、法が何を重視すべきかという人間が作る法の枠組みの問題である。法は何を前提とすべきかは、国の最高法規である憲法を参照すれば分かる。1948年の死刑制度憲法合憲判決がこの論点を考察する上で重要な判例である。最高裁の判例によれば、公共の福祉の実現を重視する為、やむを得ず死刑制度を合憲とあり、私もこの判決に賛成である。これが一点目の社会正義の実現に該当する。次に二点目について検討を加えたい。憲法の解釈に関して最高裁の判決に反対の意見もある。その論拠は多くの場合、憲法が人権保証を重視しているというものだ。しかし、人権保障を優先的に考えるから死刑制度を廃止するというのは誤りであり、人権保障を優先するからこそ、死刑制度が必要と言えよう。一人の人権保障を優先する事によって、より多数の人権が蹂躙される可能性がある為である。以上二点が苦渋の選択をする理由である。
 法に求められる役割とは社会秩序の絶対的な保護である。法による社会正義の実現とは一人の人命を救う事により、その法が適用される国民の生命の危険性を高め、犠牲者の数を増加させる事ではない。その時代における社会情勢を踏まえた上で構成人員である国民の生命と財産保護等の人権保障の保護範囲を最大限に拡大する事である。従って一見すれば無慈悲に思える死刑制度もそれにより救われる、より多くの生命がある事を鑑みれば、現状では立法の趣旨に最も合致した決断と言わざるを得ず、世界各国で死刑制度が検討されている場合、当該国家の国民意識の変容を見守りつつ、制度変更の慎重な判断を時代ごとに加えていく事こそが最重視される必要があるのである。
 以上の理由により、私は死刑制度の存置に賛成の立場を取る。しかし、このような死刑制度は例え社会正義の実現の為とはいえ、永久に存置すべきものではない。法整備だけではなく、より適切な教育政策の実行と研究により、国民意識の文明的向上を図りつつ、犯罪発生率を減らし、死刑制度を用意せずとも社会正義実現の国民意識の臨界点を迎える為の、全国民による全力の恒久的努力が必要である。

 


書いていて涙がポロリと出てしまいました。そういう小論文になってしまいました。自分で書いてみて初めて最高裁の裁判官の心が少し分かった気がします。

 

ここまで考えた場合に論点を整理するとこの死刑制度の問題は

 

より多く
一人残らず

 

のどちらを選択するべきなのか?
という問題でもあります。

 

より多くの人を助けて死刑という自己矛盾に近い不条理な刑を存続させるのか?

 

それとも

 

一人残らず公平に扱い、より多くの犠牲が出る事を容認するのか?

 

※もちろん、現状の日本でどのように犯罪抑止力があり、どのような代替案があるかということは常に検討されるべきです。

 

より多く
一人残らず

 

のどちらを選択するべきなのか?

 

このような問いは、にわとりが先なのか卵が先なのか論争に似たところがあります。

 

上記の解答例はこのような知識が無い状態で作ったものですから、もう少し小論文の内容を良くしようと思えば、公平性と公共の福祉の二項対立の論点を抽出し、論述していくという形になるかなと思います。

 

今現在各論的に上がっている意見を仮説のレベルではなく、日本という特異な島国の環境で段階的にテストすることが大切なのかもしれません。地域別にという事ですね。

 

今回のテーマに関しては、賛成、反対どちらの意見も私は大切だと思います。むしろあまりに極端に意見が割れてしまうことの方がこのようなデリケートな問題の場合は、問題だと考えます。みんなで考え、みんなで主張しあう事でよりよい解決策が見つかるものと信じています。

 

さて、私は法律の専門家ではありませんので、法律を専門にこれから勉強していこうという人は多くの論文にあたって、これらの事をもっと詳しく勉強して、ぜひよりよい社会の実現を目指してがんばっていただければと思います。

 

今回の小論文情報では、論理を前提から分解していき、より妥当な結論を導く為の思考法を解説しました。もちろんそれでも間違った結論に到達する事もあります。それでも今自分の頭にある情報の中では正解に近い精度の高い内容を思考する事ができます。

 

どんな分野の小論文であっても、論理そのものの性質上こういうテクニックは生きるかと思います。

 

試験まであと残りわずかという方もいるかと思います。試験の本番で迷った時にはこういう思考法を使ってみてください。

 

《最後に》
今回のテーマを取り上げる事は、事業運営にあたり、わりとリスキーな選択でした。

 

通常ビジネスの世界ではタブーとされている、政治、宗教等のいわゆる思想の世界に踏み込んだ内容となっています。私はそれがタブーだと知っていながら、つまり、多くの人に私牛山は嫌われてしまうだろうという事を知りながら今回の内容を公開して、取り上げました。

 

その理由は私は事業運営を最重視していないからです。
私にとっては、今回こういうテーマでみなさんに情報発信する事は大きな意味がありました。

 

大切なテーマですから、みなさんの意見も頂戴し、一緒に考えることができました。今回の事を足がかりとしてもっと妥当な解決策や方向性がないかを今後模索していきたいと思います。

 

賛成と反対の弁証法のような、折衷案があるかもしれません。専門家でないからこそ柔軟に発想できることもありますし、その人の人生経験からしか出てこない貴重な考えもあります。

 

ぜひ今後もみなさんから、このテーマについて多くのご意見が頂戴できればと考えております。

 

ありがとうございました。




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●2011年の1月を迎えて (2010年の考察から約1年を迎えて)
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ここまでに紹介した内容は、2010年度に私が教え子に教えていた内容です。このテーマは、私が学校に外部講師として授業をする際に、扱う事があるテーマでもあります。

私は、小論文のテーマとして、この社会問題を取り扱うにあたり、少し考えて終わりというように、安易にこの問題を扱いたくはありませんでした。
私が当時作った解答例は全く予備知識無しで作ったものですが(賛成版は除く)あれから一年間、仕事の合間に少しずつ勉強をしてきました。
多くの死刑制度問題を扱った書籍を読みました。


その中で、お薦めの書籍がありましたので、ご紹介しておきます。


極刑 スコット・トゥロー著(岩波書店)


日本の死刑制度について、このHPでは考察をしてきましたが、海外の事情はどうなのでしょうか?

この書籍は、弁護士として活躍する著者が、一人の法律家として死刑制度の存置問題を考察する書籍です。

著者はスタンフォード大学の大学院、ハーヴァードのロースクールと、世界屈指の名門校を卒業、 イリノイ州死刑諮問委員会のメンバーであり、ベストセラー作家でもあります。

以下のような推薦文も帯に掲載されています。
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推薦文

本書は・・・究極刑に対する究極のメッセージである。
ローレンス・トライブ(ハーヴァード大学教授 憲法学)

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私はこのHPで直感的に憲法に対する言及をしていましたが、この書籍では、アメリカ合衆国憲法の死刑判断に対する違憲宣言の歴史(アメリカ合衆国最高裁)等も詳しく時系列で解説されています。 そして、最後の章に筆者の結論が掲載されています。

この社会問題をさらに詳しく学びたい方はぜひ本書を手にとってお読みになることをお薦め致します。


 

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