賛成版は下にあります。
死刑制度はあった方がいいのだろうか。私は、特別なケースを除き、無い方がいいと考える。理由は以下の通りである。
死刑制度の是非についての各論は次のようなものである。犯罪抑止効果、犯罪被害者感情、人命に対する尊重等が、重要度が高い項目であろう。この内どの議題を優先すべきであろうか。つまりこの問題は、法が何を重視すべきかという人間が作る法の枠組みの問題である。法は何を前提とすべきかは、国の最高法規である憲法を参照すれば分かる。少なくとも法の基本的な精神とは、すべての国民を例外なく公平に扱うものである。死刑制度をめぐる各論的な検討は、公平性という立法段階における大前提が無ければ、検討のしようがない細目の検討課題である。
法はまず『公平性』という前提があり、整備され得るものであり、『公平性』が欠如した法議論は法が法たる所以を失った空理空論であると言えよう。この『公平性』という概念が死刑制度には欠落している為、私は死刑制度は廃止すべきであると考える。
死刑制度が公平性を欠いている理由は、犯罪者本人が選択不可能な犯罪者の出生環境を考慮しているとは言い難い為である。なぜ出生環境を考慮していないと私は考えるのか。その理由は精神構造は両親からの先天的な気質と環境の相互作用によって形成される為だ。主要な精神構造形成要因は3点であり、1、本人の人生での連続する選択2、両親から受け継いだ遺伝的要因3、出生発育環境(経済的要因、家族構成、周辺人間環境を含む)である。確かに1は本人に帰責性がある。しかし2と3は本人には、人種や肌の色と同じで選ぶ事ができず本人に帰責性が存在しない。身体的障害に似たハンディキャップとも表現できよう。民主主義の法治国家にあって、アドバンテージを有さない先天的弱者を保護するどころか、極刑によって裁くのが死刑の制度である。1は出生環境に該当しないが、2と3は出生環境に該当する。社会学的な見地から言えば、人間は出生の土地、時代、性別、家族構成、住環境等、分かりやすく換言すれば運命という名の出生環境の影響を受ける事により極めて大きく行動パターンと思考プロセスが変る生物である。つまり、例外的な環境に生まれた赤子から成長を遂げた青年を死刑にする事は、その法を整備する国家の法は大きく公平性を欠くという事になる。EUがEU連合への加盟の条件に死刑廃止を定めている理由はここにある。不幸な環境に生まれた赤子を死刑にすべきではないのと同様に不幸な環境で育った青年や大人を死刑という極刑で人間が裁くことは、法を作ってもいいという国民の許可の前提となっている公平というルールを根底から否定するものである。なぜならば死刑は社会からの『隔離』ではなく、『存在の全否定』 であるからだ。このような許容範囲を大きく超えた刑の整備は、とうてい公平性を有するものとは言えず、国家が社会秩序を維持する為の法としてバランスの取れたものとは言えない。絶対的な帰責性が無ければ絶対的な刑の執行は無いというのがバランスが取れた法制度ではないだろうか。
従って私は、死刑制度を廃止し終身刑の適用範囲を広げる事を提案したい。死刑制度の肯定は統治の枠組みを、精神構造形成に関して運のいい環境に生まれた大多数の人間にとって有利な形に構築する事と同義であり、公平性を前提とする法が不公平となる自己矛盾に近い制度であると同時に人道的にも許されない事であると考える為である。
最大多数の最大幸福とは、為政者の判断の為の材料であり、為政者が為政者たり得る法を作り上げる際に前提となる国民の総意ではない。以上、私は死刑制度を廃止すべきだと考える。
《解説と考察》
立教大学の教授であり、精神科医の香山リカ氏は
個々のケースの背景に時代や社会の病理を見ようと試みるのも、また私たち大人の義務なのではないか?
と社会学的な見地から、新聞への寄稿文で述べている。
私も同感だ。
コミックやテレビゲームやドラマ、映画では、ストーリーが分かりやすく語られる。
正義と悪という二つのグループだけが織り成すドラマは見ている側にも爽快で気持ちのいいものだ。
自分は正義の立場を常に取ることができるからだ。
しかし虚構の世界ではなく現実の世界ではどのような凶悪犯でも、赤子の頃から凶悪犯ではない。
虚構の世界では登場した段階から悪役かもしれないが、生まれた瞬間から悪役のような人間はいない。
環境に染まる、周囲の状況に染まる、あるいはそれを自ら選択する事によって個々の人格が作られると
すれば、社会学的な見地を無視して論じることは現実を無視していると取られても無理は無いのではないか?
自分たち大人に責任は一切無いと決め付けているのではないか?
次のような話がある。
自分の母親を殺した少年がかつていた。
なぜ自分の母親を殺したのか?
彼の気持ちなど分かりたくもないと思うかもしれないし、死刑にすべきだと人は言うかもしれない。
彼はどんな気持ちで自分の母親を殺したのか?
幸せな人生は彼には無かったのか?
彼の判断能力は適切だったのか?
彼の気持ちには微塵もつらい感情や、何かにおびえる心情は無かったのか?
悪というレッテルを彼に貼ることは簡単だ。
しかし現実には人間の人格は先天的な遺伝子的な気質と、環境の相互作用によって作られるという。
この刑務所に入れられている時、横浜国立大学の堀之内教授は、最初の第一声で、彼に次のように語りかけたそうだ。
『 君にはそうするしか無かったんだね』
もちろん教授は犯罪者を擁護しているのではなく、そうなるまでの精神構造形成過程を熟知した上で
精神疾患に陥ってしまった少年を傷つけないよう、最大限に配慮した為だと思われる。
命を奪った人間は命で償うべきという報復論は、犯罪に手を染める加害者の不条理な人生を考慮
しないものかもしれない。犯罪の被害者も加害者も、我々も、不条理な世界の住人であるという事を前提として
物事を考える必要があるのかもしれない。
どちらが妥当なのかは多くの人が議論のテーブルにつき、考え主張する事でしか分からない。
もう一度様々な観点から考えておきたいテーマである。
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さて、今回の『死刑制度の是非』は、実は一昨年前に私が教え子の為に用意していた問題でもあります。
ですから上記の解答例は、昨年慶應大学の総合政策学部に合格した中村君等は持っているんですね。
今回あらたにもう一度考えてみたのですが、その時、ほっかほか弁当の野菜炒め弁当のにんじんをボリボリかじりながら
あーでもない、こうでもないとセルフディベートをしていました。
セフルディベートと言うのは自分が出した結論に対して自分で反論を加え、また自分でそれに対して反論するというまさに一人二役の芝居をするような技法です。
このセルフディベートを行う事によって、論理の穴をなくしやすく反論を防ぎ易くなると言われています。
今回の場合は、私の答案は公平性を論拠としているわけですが私が野菜炒め弁当をボリボリやっている時に出てきたのはこんな内容です。
--------牛山の頭の中のセルフディベート----------------------
相手さん『あんたは公平性が大切っていうけど、本当に法を用意するにあたって、公平性が重要なんかい!えーーー!!どないやねん!』
牛山『じゃあ、な・・・何が大切なんですか(汗)』
相手さん『・・・・知らん』
--終了--
--------牛山の頭の中のセルフディベート----------------------
という風にあっという間にセルフディベートは今回に関しては終ってしまいまして(アホやん)
・・・ということは、憲法が重視するのはなあに?という思考になり、
憲法の趣旨ってそういえば何なんだろう?
という疑問にぶち当たったんですね。
それで、死刑制度に関しても恐らくは憲法解釈の判例があるのではないかと思い、ソッコーでネット検索してみると出てきました。↓憲法に照らして、死刑制度そのものが違憲であると論じた弁護士が過去にいたんですよ。
しかし負けてしまったようです。↓
《死刑制度合憲判決事件》
死刑制度合憲判決事件(しけいせいどごうけんはんけつじけん)とは、日本において日本国憲法施行後に死刑制度の存在は憲法違反であるか否かが最高裁判所で争われた刑事裁判である。判決自体は死刑制度は合憲とされ上告棄却(死刑確定)になったが、この憲法解釈が現在も死刑制度存置の根拠とされている。
最高裁判決 [編集]
最高裁裁判官11人による大法廷は、1948年(昭和23年)3月12日に日本国憲法の主旨と死刑制度の存在は矛盾せず、合憲であると判決し上告を棄却して死刑判決が確定した(最(大)判昭和23年(1948年)3月12日刑集2巻3号191頁)。
判決文では「生命は尊貴である。一人の生命は、全地球より重い。…日本国憲法第13条においては、すべて国民は個人として尊重せられ、生命に対する国民の権利については、立法その他の国政の上で最大の尊重必要とする旨を規定している」としているが、その反面「公共の福祉に反する場合には、生命に対する国民の権利といえども立法上制限乃至剥奪されることも当然予想している」として無制限ではないとした。
また「日本国憲法第31条において、国民個人の生命であっても法律の定める適理によって、これを奪う刑罰を科せられることが定められている」とした。そのため日本国憲法は刑罰としての死刑制度存置を想定したものであり、是認しているから合憲であると判決した。
以上ウィキペディアより引用
http://ja.wikipedia.org/wiki/死刑制度合憲判決事件
そうすると、憲法に関する最高裁の判決では、その結論の論拠は、公共の福祉にあるようです。
つまり、公共の福祉を重視するから、死刑制度は存続させてよい
というのが結論になります。
もう100年ほど前の判決ですが最高裁の判決の為、現在でも影響力があります。
そこで私はさらに、詳しく知りたいと思いました。本当にこれでいいのかなと思ったからなんですね(笑)
最高裁の判決に満足しないなんて相当私もアホなんではないかと思うんですが、真理の探究の為にこそロジックはあるのではないかと疑っていない私としては、やはりそこは考えてみたくなりました。
そうするとですね。東京大学の名誉教授の本の引用にたどりついたんです。
ところで、憲法の前提ってなんなんでしょうか?
憲法の前提とは、
憲法の趣旨です。
法律というのはその全ての分野において、立法趣旨というものがあります。これが太い幹の部分であり、この大目的の為に枝葉の条文が作られ細かなルールができるわけです。例えば知的財産権であればその究極的な目的は日本国家の産業が技術の累積的進歩により発展する事です。
だからこそ特許というのは期間があり、独占権は切れていづれはその内容が全ての人に共有される、つまり日本中の会社がその技術を使ってもよくなるわけです。そうする方が産業は発展しますからね。
それで私は、ちょっと気になりましたので、横着をしまして(笑)図書館に行かずにインターネットで憲法の趣旨を検索してみました。
そして次のようなページを見つけたんですね。そうするとどうも憲法の立法趣旨は、本質的には国民の権利保障を究極目的としているそうなんです。
以下
http://questionbox.jp.msn.com/qa986461.html
のページより引用
------------引用-------------------------------------------
前置きが長くなりました。結論をはっきりさせましょうね。
「日本国憲法」をはじめとする「近代憲法」は、何のために作ったのか? つまり、「近代憲法」の立法趣旨(立法目的)は、何なのか?
尊敬する故・芦部信喜先生(東京大学名誉教授)の本から、「憲法」の立法趣旨(本質)を引用しましょう。
「憲法が、国家権力を制限し、一定の権能を各国家機関に授権する法、制限し授権することによって人権を保障する法、であるところに本質がある」(以下、省略。)
--------------引用-----------------------------------------
つまり、東京大学の名誉教授によれば憲法の趣旨は以下の3点であるという事らしいのです。
1、権力を制限し、
2、一定の権能を各国家機関に授権する
3、制限し、授権することによって人権を保障する
文脈から判断すると3番が目的のように思います。
そうすると憲法というのは人権保障を第一義とした法ではないのかという解釈ができます。
公平性と、公共の福祉のどちらが人権保障に近い考えであるのか?
私は公平性ではないかと考えますが、皆さんはいかがでしょうか?
人権保障とは何を前提としているのか、
公平性あっての人権保障なのか、それとも公共の福祉あっての人権保障なのか、
私はこれをイメージで考えてみました。
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まだ文明も何もない1000人の村があり、これから法律を作ることになりました。
村人を集めて村長が言いました。これから法律を作る。
案が二つある。
1つは最大多数の最大幸福を優先する法律
2つめは、公平に平等にルールが適用される法律
どっちがいいか?
私牛山なら、公平に平等にルールが適用される法律を望みます。それこそが私の人権保障につながり子供の人権保障につながると考えるからです。
ちょっとした不運に見舞われて、悪い環境に自分の子供が生まれた時に何かの間違いで悪いことをしてしまい、そして死刑になるかもしれないとしたら、余計に公平性を重視した法律を望むでしょう。
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そうすると、最高裁判所での決定はおかしいのではないか。
死刑制度は廃止すべきなのではないか。
というのが、現時点での私の考えです。
しかし、それは安易な考えかもしれません。
以下の様な死刑制度がある方がいいという小論文も書いてみました。
牛山の解答例 賛成版
死刑制度はあった方がいいのだろうか。それとも無くすべきだろうか。
私は死刑制度の存置に賛成である。私が死刑制度の存置に賛成である理由は、二点である。一点目は法の究極的な使命である社会正義の実現にあり、二点目は国の最高法規である憲法が本質的に目的としている人権保証の最大化にある。
以下になぜこれらの二点が死刑制度の存置によって現実になり得るのかについて述べたい。死刑制度の是非に関する各論は、犯罪抑止効果、犯罪被害者感情、人命に対する尊重等が、重要度が高い項目であろう。この内どの議題を優先すべきであろうか。つまりこの問題は、法が何を重視すべきかという人間が作る法の枠組みの問題である。法は何を前提とすべきかは、国の最高法規である憲法を参照すれば分かる。1948年の死刑制度憲法合憲判決がこの論点を考察する上で重要な判例である。最高裁の判例によれば、公共の福祉の実現を重視する為、やむを得ず死刑制度を合憲とあり、私もこの判決に賛成である。これが一点目の社会正義の実現に該当する。次に二点目について検討を加えたい。憲法の解釈に関して最高裁の判決に反対の意見もある。その論拠は多くの場合、憲法が人権保証を重視しているというものだ。しかし、人権保障を優先的に考えるから死刑制度を廃止するというのは誤りであり、人権保障を優先するからこそ、死刑制度が必要と言えよう。一人の人権保障を優先する事によって、より多数の人権が蹂躙される可能性がある為である。以上二点が苦渋の選択をする理由である。
法に求められる役割とは社会秩序の絶対的な保護である。法による社会正義の実現とは一人の人命を救う事により、その法が適用される国民の生命の危険性を高め、犠牲者の数を増加させる事ではない。その時代における社会情勢を踏まえた上で構成人員である国民の生命と財産保護等の人権保障の保護範囲を最大限に拡大する事である。従って一見すれば無慈悲に思える死刑制度もそれにより救われる、より多くの生命がある事を鑑みれば、現状では立法の趣旨に最も合致した決断と言わざるを得ず、世界各国で死刑制度が検討されている場合、当該国家の国民意識の変容を見守りつつ、制度変更の慎重な判断を時代ごとに加えていく事こそが最重視される必要があるのである。
以上の理由により、私は死刑制度の存置に賛成の立場を取る。しかし、このような死刑制度は例え社会正義の実現の為とはいえ、永久に存置すべきものではない。法整備だけではなく、より適切な教育政策の実行と研究により、国民意識の文明的向上を図りつつ、犯罪発生率を減らし、死刑制度を用意せずとも社会正義実現の国民意識の臨界点を迎える為の、全国民による全力の恒久的努力が必要である。
書いていて涙がポロリと出てしまいました。そういう小論文になってしまいました。自分で書いてみて初めて最高裁の裁判官の心が少し分かった気がします。
ここまで考えた場合に論点を整理するとこの死刑制度の問題は
より多く
一人残らず
のどちらを選択するべきなのか?
という問題でもあります。
より多くの人を助けて死刑という自己矛盾に近い不条理な刑を存続させるのか?
それとも
一人残らず公平に扱い、より多くの犠牲が出る事を容認するのか?
※もちろん、現状の日本でどのように犯罪抑止力があり、どのような代替案があるかということは常に検討されるべきです。
より多く
一人残らず
のどちらを選択するべきなのか?
このような問いは、にわとりが先なのか卵が先なのか論争に似たところがあります。
上記の解答例はこのような知識が無い状態で作ったものですから、もう少し小論文の内容を良くしようと思えば、公平性と公共の福祉の二項対立の論点を抽出し、論述していくという形になるかなと思います。
今現在各論的に上がっている意見を仮説のレベルではなく、日本という特異な島国の環境で段階的にテストすることが大切なのかもしれません。地域別にという事ですね。
今回のテーマに関しては、賛成、反対どちらの意見も私は大切だと思います。むしろあまりに極端に意見が割れてしまうことの方がこのようなデリケートな問題の場合は、問題だと考えます。みんなで考え、みんなで主張しあう事でよりよい解決策が見つかるものと信じています。
さて、私は法律の専門家ではありませんので、法律を専門にこれから勉強していこうという人は多くの論文にあたって、これらの事をもっと詳しく勉強して、ぜひよりよい社会の実現を目指してがんばっていただければと思います。
今回の小論文情報では、論理を前提から分解していき、より妥当な結論を導く為の思考法を解説しました。もちろんそれでも間違った結論に到達する事もあります。それでも今自分の頭にある情報の中では正解に近い精度の高い内容を思考する事ができます。
どんな分野の小論文であっても、論理そのものの性質上こういうテクニックは生きるかと思います。
試験まであと残りわずかという方もいるかと思います。試験の本番で迷った時にはこういう思考法を使ってみてください。
《最後に》
今回のテーマを取り上げる事は、事業運営にあたり、わりとリスキーな選択でした。
通常ビジネスの世界ではタブーとされている、政治、宗教等のいわゆる思想の世界に踏み込んだ内容となっています。私はそれがタブーだと知っていながら、つまり、多くの人に私牛山は嫌われてしまうだろうという事を知りながら今回の内容を公開して、取り上げました。
その理由は私は事業運営を最重視していないからです。
私にとっては、今回こういうテーマでみなさんに情報発信する事は大きな意味がありました。
大切なテーマですから、みなさんの意見も頂戴し、一緒に考えることができました。今回の事を足がかりとしてもっと妥当な解決策や方向性がないかを今後模索していきたいと思います。
賛成と反対の弁証法のような、折衷案があるかもしれません。専門家でないからこそ柔軟に発想できることもありますし、その人の人生経験からしか出てこない貴重な考えもあります。
ぜひ今後もみなさんから、このテーマについて多くのご意見が頂戴できればと考えております。
ありがとうございました。
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●2011年の1月を迎えて (2010年の考察から約1年を迎えて)
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ここまでに紹介した内容は、2010年度に私が教え子に教えていた内容です。このテーマは、私が学校に外部講師として授業をする際に、扱う事があるテーマでもあります。
私は、小論文のテーマとして、この社会問題を取り扱うにあたり、少し考えて終わりというように、安易にこの問題を扱いたくはありませんでした。
私が当時作った解答例は全く予備知識無しで作ったものですが(賛成版は除く)あれから一年間、仕事の合間に少しずつ勉強をしてきました。
多くの死刑制度問題を扱った書籍を読みました。
その中で、お薦めの書籍がありましたので、ご紹介しておきます。
極刑 スコット・トゥロー著(岩波書店)
日本の死刑制度について、このHPでは考察をしてきましたが、海外の事情はどうなのでしょうか?
この書籍は、弁護士として活躍する著者が、一人の法律家として死刑制度の存置問題を考察する書籍です。
著者はスタンフォード大学の大学院、ハーヴァードのロースクールと、世界屈指の名門校を卒業、 イリノイ州死刑諮問委員会のメンバーであり、ベストセラー作家でもあります。
以下のような推薦文も帯に掲載されています。
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推薦文
本書は・・・究極刑に対する究極のメッセージである。
ローレンス・トライブ(ハーヴァード大学教授 憲法学)
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私はこのHPで直感的に憲法に対する言及をしていましたが、この書籍では、アメリカ合衆国憲法の死刑判断に対する違憲宣言の歴史(アメリカ合衆国最高裁)等も詳しく時系列で解説されています。 そして、最後の章に筆者の結論が掲載されています。
この社会問題をさらに詳しく学びたい方はぜひ本書を手にとってお読みになることをお薦め致します。