自分の意見をハッキリと言えば、(そうではないのではないか?)と思われた時に
評価が下がります。
したがって、ズルイ部分もあるのですが、自分の考えを言わない人もいます。
もちろん、自分の考えを述べなければいいという単純な話ではありません。
論文試験では、自分の考えを述べなければなりません。
しかし、いつも常に最高の意見を提示できるわけではありません。
論文試験では、あなたは書く事ができない内容に苦しまされることもあるでしょう。
論文試験は、ある程度自由に書く事が許されるので、ある意味では書いた内容が
評価されれば、結果としてはオーライということになってしまう側面もあります。
例えばおかしなことを言っている人がいたとしましょう。
非論理的でおかしな言説でも、読み手が(そうなのかな?)と思えば、それは
おかしな言説ではありません。
突飛な意見も、解釈次第では、(なかなか面白い意見だ)と好意的に受け止められて
しまうこともあります。
逃げのテクニックなどと言えば、短絡的に考えられた場合、牛山は逃げること を推奨している・・・というふうに考えられてしまうかもしれません。
これは、表面的なものの見方です。
そもそも、文章を書く、ものを考えるということは、本来が物事に対して 慎重であることであれば、同時に方向性を定めるということでもあります。
思考や論述の方向性を決める際に、見方を変えれば逃げたということになり、 見方を変えれば攻めたということにもなります。
物事には常に二面性があります。
攻めていると言えば、聞こえはいいですが、おろかにも論理に飛躍があり、
妥当な考察ができないというレッテルを貼られることもあります。
また、卑怯と言えば卑劣な行為に聞こえますが、逆に言えばしたたかな
部分があるとも言えます。
とりわけ慶應義塾大学法学部の小論文試験では、自分ひとりの独りよがりな
政治論や正義論を振りかざす人は、点数が取れないように設計されています。
慎重に考える力がない人が、国政に携わることがあれば、その方がむしろ
危険と言えるでしょう。
このように、物事の二面性を考慮し、物事の本質に迫っていけば、この授業で
扱っている逃げのテクニックとは、愚かな失言を回避し、慎重な言説を行うこと
と表現も可能です。
モノの考え方は複雑な部分もあります。
文章は生き物です。
したがって、表面的にだけ物事を見ていけば本質を見失います。
どのような形で書く事が出来ない際に、文章を書く事ができるのかについて
理解を深めましょう。
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