1. 私が書いた解答例(2011)と正反対の実情
2011年度の慶應義塾大学総合政策学部の入試問題では、「君が日本をデザインする時、どのような日本が良い日本だと考えるか」という趣旨のことが問われた。私は慶應大学の進学支援をする関係で、全学部の入試問題解答例を場合によっては20年分ほど作成している。これらの解答例は、原則として塾内で閲覧可能にしている。私の解答例は劇薬的な内容だからである。
現状の日本は、私が書いた解答例とは真逆の方向性に進んでいる。
2. グローバル時代だからグローバル化は正しいのか
今世界はグローバル化しているので、グローバル化することが大切だという論調ははたして正しいのだろうか。「グローバル化なので英語」という発想もある意味で短絡的と言える。「グローバル時代だからこそ英語を勉強しない」という方向性案があってもいいはずである。そもそも英語がうまくなったとしても、ネイティブのレベルには届かず、後は何もできないという話ならば、海外以下の学生が量産されるだけであり、英語重視によって何のグローバル時代の問題も解決できないということになってしまう。このように物事を言葉でしか考えない弊害は、至るところに存在する。問題解決を重視する学部の入試対策では、問題解決のフレームワークを用いればいいというのも同様の発想である。※勘違いが無いように念のために補足しておくが私は英語学習を批判はしていない。大変結構なことである。
さらに言えば、もともとそこまでグローバル経済は成立していないという見方も存在する。
「この英単語が出ているので、この英単語を覚えれば合格できますか」という質問も毎年受けるが、この質問と似ている。社会などの暗記科目の場合は、暗記した内容がそのまま点数化されるため、暗記すれば点数を取ることができるが、英語などの技能系の科目では、暗記の質や反射速度も問題となる。さらに、語彙力の数に比例して正答率が上がるとは限らないため、ボキャブラリーが少ない海外留学経験者の方が高得点をたたき出すこともある。つまり、前提が違うのである。言葉で物事を考える弊害とは、このように物事を論理関係を無視して考察の材料とすることで現実からズレることにある。
同様に、問題解決の問題が出ており、何かしら問題解決のアプローチと似た形で捉えることができるので、フレームワークとして問題解決のアプローチそのものを扱うという発想が存在する。
これは本質的にフレームワークの役割を理解していないことから生まれる発想である。何らかの意思決定を行う際に情報を整理加工するためにフレームワークを用いることができるのであり、その思考ステップに用いることができないのであれば、それはフレームワークとは呼べない。また仮にそれをフレームワークと百歩譲って呼べたとしても、ここまでに述べたフレームワークを使用するリスクから、そのステップを踏むのは危険である。
フレームワークを無批判に使用する行為は、「グローバル時代だからグローバル化せよ」と述べるのに似ている。「正解としての思考をする意識」が考えを小さく、ズレたものにしがちだ。
3. 気持ちが大きくなってしまった
本質的な問題はどこにあるのか。気持ちが大きくなっていることにある。国や企業人の心が大きくなった時、往々にして実態からズレた思考そのものを、これが正解であると思い込むようになる。慢心が蔓延した時代が現代なのかもしれない。
4. 一度大きくなった気持ちは、変えにくい
人の気持ちは変わりにくい。特に一度大きくなった気持ちは、簡単には無くならない。従って、この一点は単なる人生訓に過ぎないが、私たちは全力で自分の気持ちが大きくなることと一生戦い続ける必要がある。
物事を決めつけず、いわゆる正解的な思考に依存しなかったLINEはメッセンジャーアプリで数億人のユーザーを作り、大きく成功した。
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