小論文のフレームワーク思考法

 

U 小さくまとまるSFC受験生

 

1. 「問題解決のフレームワーク」を勉強した受験生の答案

 近年小論文の添削をしていると、このフレームワークを学んだ受験生の答案が散見される。その中でも、特に小さくまとまっている感じを感じさせる答案とは、問題解決のアプローチそのものを一つのフレームワークに見立てて、答案を構成しているものである。
2011年度の慶應義塾大学総合政策学部の設問2では、『「君の総合政策学的アプローチ」を述べてください。』という問題が出題されている。この問題に対して、問題解決のアプローチ(因子を分解してその因子結果から対策案を立案する)をそのまま書いている答案が散見される。「問題解決学の内容をそのまま書けば、それが点数になる」と考えてしまう答案である。

 偏差値教育を受けた若者は自然と何についても正解があるという強い先入観を持つことがある。(何を書けば評価されるのか?)という正解思考が思考の中枢にまで入り込み、正解を学ぶ思考が定着化する傾向がある。この結果、正解ではないものは常に無価値であり、正解に価値があり、正解が評価されるという強いバイアスが働いていることがある。その結果生まれるデメリットとは、以下のようなものである。

  1. 程度の問題が無視され、見えなくなる。
  2. 物事の複雑性を感じ取れなくなる。
  3. 正解が複数あることや、正解が無いことを理解できなくなる。解無しという数学的解答を一つの正解と見なすため、解無しという正解があると錯覚し、本当に正解が無いことを理解できなくなる。
  4. 正解なのか不正解なのかという極端な判断になりやすい。
  5. 無難に正解を書き評価される道を選び、チャレンジできない。
  6. 既存の枠組みの中でしか考えられなくなり、何につけても小さくまとまる。

特に大きな問題点は、(6)である。



2. フレームワークを使うことの意味と価値

 フレームワークを使うことの意味と価値は、本来正解を導くものではなく、思考の妥当性が担保されるように、リスクを避け、短時間で一定の品質の思考を行うことにある。フレームワークとは、言い換えれば単なる保険に過ぎない。

 逆に言えば、問題を解くアプローチをフレームワーク的に一定の手順で考えるなどの行為を行った場合、実態からズレていくことが多い。フレームワークを使うことが目的化するからである。自分の頭で考えず、何事もフレームワークに当てはめて、思考を行うようになる。実態が何か、どうなっているのか、どのような対策が有効かを自分の頭で考える前に、目の前の問題や、得る事ができなかった情報を考える前に、フレームワークになんでもポコポコと当てはめて考えてしまうようになるのである。
 端的に言えば、手段の目的化である。
 フレームワークを使うことで、思考の質が保たれないのであれば、フレームワークを用いることにそもそも意味が無い。目の前の現象を見て、そのフレームワークを使うべきかどうかの判断すら放棄してしまい、何も考えなくなってしまった場合、思考力は急激に低下する。



3. フレームワークを正解と見なすリスク

 フレームワークを正解と見なすリスクは大きく3つある。(1)正解思考(情報の出口)(2)解釈の偏り(情報の加工段階)(3)情報の量と質(情報の入り口)の3つである。

 第一のリスクは、フレームワークそのものを学ぶうちに、「フレームワークが正解だ」という認識が生まれることがある。フレームワークは正解でもなんでもない。そもそも世界をいくつかのフレームワークでくくるとすれば、そのパターンはほぼ無限に存在する。そもそも「なぜそのフレームワークで、情報をくくることが妥当なのか」ということに関する問いに答えられないのであれば、そのフレームワークを用いる正当性はその瞬間に失われる。

 第二のリスクはフレームワークを仮に万全の形で使用したとしても、そのフレームワークから生まれる何らかの解釈には、偏りがあり、必ずしも思考の品質は一定ではないことである。このような現象が起こる理由は、フレームワークが言葉のツールであることに起因する。そもそも何らかの言葉を加工し、情報を要約整理することを通してフレームワークは機能する性格を有するため、言葉の加工段階での個人の解釈がいかに論理的であろうと、そもそもどの論理の理由軸を評価するべきなのかという問いに直面せざるをえない。
これは情報量が多くても同じことである。なぜならば、情報量が多ければそれだけフレームワークの各項目に入れる情報が増え、その後の分析過程で結局は整理要約が必要になるからだ。さらに言えば、情報量が増えることにより、どのような枠組みで情報をくくり直すのかという切迫した状況が生まれる。フレームワークを用いても思考は属人的な性格を必ず有するのである。

 第三のリスクは、フレームワークに入れる情報の量と種類の問題である。何をフレームワークに入れて料理するのかという問題は、環境と当事者に依存する。環境は常に一定ではなく、多くのケースで思考する人は圧倒的な情報不足の中で意思決定しなければならない。さらに言えば、その中にどの情報を入れるかという判断は、思考する当事者にゆだねられている。したがって思考をハウツー化しても限界が自ずとあり、ハウツー化されることによってむしろ思考を放棄する人物も出てくる。



4. 思考のひな型を使う危険性

 思考のひな型を使うことには上記のような3つの危険性がある。再度掲載する。

(1)正解思考(情報の出口)
(2)解釈の偏り(情報の加工段階)
(3)情報の量と質(情報の入り口)

 従って、フレームワークではなく、フレームワークをさらに限定的に使用する場合、現実に対処できなくなる可能性はさらに高まる。例えば、「問題解決思考をフレームワーク化すること」などはその典型である。仮にそのようなことができるのであれば、最初から問題解決など誰でも簡単にできることになる。

 そもそも大項目と小項目の関係から言えば、大項目が問題解決であり、小項目がフレームワークである。(問題を解決するために道具のフレームワークを用いる。)問題解決=問題解決のフレームワークという同次元の認識で解釈をすると、「正解があり、この正解を用いることによって問題解決まで手軽に3分間カップラーメンのようにできてしまう」というインスタント思考が出来上がる。
 一見するとお手軽で簡単なイメージがあるが、当然このような対策は、認識がズレているために機能しないリスクも大きい。

 一般的にこのように、「思考するということ」は、相当なめられている。
 フレームワークを使用するということと、問題解決をフレームワークとして捉え、それを元に問題を解いていくということの違いとは何か、この点についてこのウェブブックでは詳しく解説していく。



5. 本当の机上の空論とは何か

 机上の空論という言葉は安易に使われがちである。机上の空論とは、合理的な反論ができない時に苦し紛れに使われることが多い言葉だ。机上の空論ということばを吐くとき、何も具体的に精緻に考えられていないことが多い。つまり考えることができなかった時の「逃げの一手」として、使われがちである。仮に考える事ができているのであれば、具体的な反論、反証があるのが一般的だ。

 「大雑把に考えること」と、「ダイナミックに考えること」は、同じではない。大雑把に考えるということは、表面的に考えるということであり、ダイナミックに考えるということは、既存の枠組みにはまった考え方をしないということである。本稿では、ダイナミックに思考するコツと、そのための重要な考え方を解説する。
学際的にかつ、多元的にかつ、数百年、数千年の時間的枠組みで物事を捉えることは、物事の本質を捉えることにもつながる。問題解決とは、一見すればとらえどころがなく、一見すれば無秩序であり、一見すれば明らかに成功していないところに解決の糸口があり得るところが面白いところである。

 したがって現実との接点があることのみが「正当な議論」と考えればまたこれは狭い見識で物事を捉えていることになる。自分の狭い視野で全てが科学的であるなどと考えるのは慢心に過ぎない。真に科学的な態度とは、現実には捉えどころが無いものごとと真摯かつ謙虚に向き合う姿勢である。






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