U 小さくまとまるSFC受験生
1. 「問題解決のフレームワーク」を勉強した受験生の答案
近年小論文の添削をしていると、このフレームワークを学んだ受験生の答案が散見される。その中でも、特に小さくまとまっている感じを感じさせる答案とは、問題解決のアプローチそのものを一つのフレームワークに見立てて、答案を構成しているものである。 偏差値教育を受けた若者は自然と何についても正解があるという強い先入観を持つことがある。(何を書けば評価されるのか?)という正解思考が思考の中枢にまで入り込み、正解を学ぶ思考が定着化する傾向がある。この結果、正解ではないものは常に無価値であり、正解に価値があり、正解が評価されるという強いバイアスが働いていることがある。その結果生まれるデメリットとは、以下のようなものである。 特に大きな問題点は、(6)である。 3. フレームワークを正解と見なすリスク フレームワークを正解と見なすリスクは大きく3つある。(1)正解思考(情報の出口)(2)解釈の偏り(情報の加工段階)(3)情報の量と質(情報の入り口)の3つである。 第一のリスクは、フレームワークそのものを学ぶうちに、「フレームワークが正解だ」という認識が生まれることがある。フレームワークは正解でもなんでもない。そもそも世界をいくつかのフレームワークでくくるとすれば、そのパターンはほぼ無限に存在する。そもそも「なぜそのフレームワークで、情報をくくることが妥当なのか」ということに関する問いに答えられないのであれば、そのフレームワークを用いる正当性はその瞬間に失われる。 第二のリスクはフレームワークを仮に万全の形で使用したとしても、そのフレームワークから生まれる何らかの解釈には、偏りがあり、必ずしも思考の品質は一定ではないことである。このような現象が起こる理由は、フレームワークが言葉のツールであることに起因する。そもそも何らかの言葉を加工し、情報を要約整理することを通してフレームワークは機能する性格を有するため、言葉の加工段階での個人の解釈がいかに論理的であろうと、そもそもどの論理の理由軸を評価するべきなのかという問いに直面せざるをえない。 これは情報量が多くても同じことである。なぜならば、情報量が多ければそれだけフレームワークの各項目に入れる情報が増え、その後の分析過程で結局は整理要約が必要になるからだ。さらに言えば、情報量が増えることにより、どのような枠組みで情報をくくり直すのかという切迫した状況が生まれる。フレームワークを用いても思考は属人的な性格を必ず有するのである。 第三のリスクは、フレームワークに入れる情報の量と種類の問題である。何をフレームワークに入れて料理するのかという問題は、環境と当事者に依存する。環境は常に一定ではなく、多くのケースで思考する人は圧倒的な情報不足の中で意思決定しなければならない。さらに言えば、その中にどの情報を入れるかという判断は、思考する当事者にゆだねられている。したがって思考をハウツー化しても限界が自ずとあり、ハウツー化されることによってむしろ思考を放棄する人物も出てくる。 4. 思考のひな型を使う危険性
思考のひな型を使うことには上記のような3つの危険性がある。再度掲載する。 5. 本当の机上の空論とは何か 机上の空論という言葉は安易に使われがちである。机上の空論とは、合理的な反論ができない時に苦し紛れに使われることが多い言葉だ。机上の空論ということばを吐くとき、何も具体的に精緻に考えられていないことが多い。つまり考えることができなかった時の「逃げの一手」として、使われがちである。仮に考える事ができているのであれば、具体的な反論、反証があるのが一般的だ。 「大雑把に考えること」と、「ダイナミックに考えること」は、同じではない。大雑把に考えるということは、表面的に考えるということであり、ダイナミックに考えるということは、既存の枠組みにはまった考え方をしないということである。本稿では、ダイナミックに思考するコツと、そのための重要な考え方を解説する。 学際的にかつ、多元的にかつ、数百年、数千年の時間的枠組みで物事を捉えることは、物事の本質を捉えることにもつながる。問題解決とは、一見すればとらえどころがなく、一見すれば無秩序であり、一見すれば明らかに成功していないところに解決の糸口があり得るところが面白いところである。 したがって現実との接点があることのみが「正当な議論」と考えればまたこれは狭い見識で物事を捉えていることになる。自分の狭い視野で全てが科学的であるなどと考えるのは慢心に過ぎない。真に科学的な態度とは、現実には捉えどころが無いものごとと真摯かつ謙虚に向き合う姿勢である。 |
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