ディジシステム牛山の人生七転び八起き


しかし、そこからしばらくたつと、段々と病状が
回復に向かい、今までの苦痛がウソのように全快した。

 

今まで歩くこともままならず、生きていることが
苦しく、絶え間ない痛みや苦痛に耐えながら生きていた
毎日が、一変した。

私たちは普通の社会生活を送ることができるように
なった。

世界の色が変わったと感じた。

 

いま私たちは普通に暮らしていれば、外の景色も空気も
世界も昨日と同じ色に見えるかもしれない。

 

しかし、目の前が真っ暗になるような状態の毎日を暮して
いれば、その病気の状態から脱した時には、世界の色が
変わって見える。

 

体から包帯が取れ、自由に手足が動くようになり、
制限が無くなり、普通に暮らすことができるようになる
ことの素晴らしさを感じた。

普通に動くことができる!
普通に歩くことができる!
普通に生活ができる!
普通に生きることができる!

 

 

なんと幸せなことか!!!

 

 

私は他の人と同じように勉強することもできるように
なれば、ほかの人と同じように恋愛することもできるように
なった。

この時に、くだらないと思うかもしれないが、
生まれてきたことに感謝した。

人間ちょっとグレてくると、

「生んでくれなんて頼んでねぇーんだよ!」とか
親に偉そうに言ってしまうものである。

 

はっきり言って、アホである。

 

親のありがたみが分からない思春期は、いわゆる反抗期と
呼ばれる時期で、誰もが経験があると思うが、
親が煩わしく思えたりするものだ。

私もそんな時期を経験したし、あまりできた子ではなかった
ので、親に向かってたいそうな口をきいてしまったこともある。

しかし、この時ばかりは、普通に暮らすことができるようになった
喜びでいっぱいで、親に感謝の言葉を述べたのを
覚えている。

本当に、自分が追い詰められなければなかなか人間は
物事のありがたみに気づくことができない。

私はその意味でラッキーだった。

普通の体にもどっただけなのだが、何やら生まれ変わった
気分だった。

私はそれまでできなかったことをたくさんやった。
たくさん遊びもした。とても楽しかった。

ほんとうにくだらないことをたくさんやった。

 

このような原体験は、私の物事の考え方の一部になっている。

自分のようなちっぽけな取るに足らない人間が、
生きている価値があるんだろうか?と感じたこともある。

こんなに苦しい生活を送るのなら、生きない方が楽なんじゃ
ないかと病苦で感じたこともある。

何のとりえもない自分が、本当に取るに足らない人間に
思えたこともある。

頭がいい兄に比べて、自分なんか何をやってもダメなんじゃ
ないかと思ったこともある。

 

それに、高潔な精神性だって私は持っていない。

正直言って、聖人君子ではない。

 

立派な人間でもない。
世の中には、ガンジーやネルソンマンデラ、マザーテレサの
ような偉人もいるが、あれほどまでの高潔な精神があるなど
とは言えない。

 

私はたいしたことがない人間だ。

 

だからこそ、私がやろうとしているのは、日々昨日の
自分よりもチョットだけ前に進もうとしてみること。

立派な人間ではないからこそ、ちょっとだけ立派になれる
ように、がんばってみようかな。

すごい人間ではないからこそ、ちょっとだけすごくなれるように
がんばってみようかな。

頭がよくないからこそ、ちょっとだけ頭がよくなるように
がんばってみようかな。

そういうことの積み重ねで今日まできている。





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