議論力養成ウェブブック

 

U 議論をする際の論点思考


1 受験生がよくやる失敗(テーマの一致)
受験生や社会人の論者がこの手の問題を扱った際によくやってしまうのは、テーマだけを一致させて、論点がズレることである。

 例えば、貧富の格差の問題を小論文で取り扱う際に、格差という大雑把なテーマについて、大雑把に考察し、アレコレ述べるという失敗パターンである。格差は悪いことではないという言説も同様である。
実質的な論点が「貧富の格差は、社会正義に反するため、程度の問題こそあれ、行き過ぎた格差は是正すべきだ。」というものであった場合に、テーマは格差かもしれないが、論点は、「行き過ぎた格差は是正すべきだ。」である。論点をズラせば、議論はしていない。論点がズレただけで、話がそれただけのことである。つまり、「格差は悪いことではない」という反論は、的外れな意見であり、「行き過ぎた格差は是正すべきだ。」という意見に対する反論にはなっていない。So What?の世界である。テーマだけを一致させれば、何を言っても大丈夫だと考えるのではなく、論理的に論点とつながりの強い理由や前提を整理して記述することで、論点そのものの論理的妥当性がどの程度なのかについて、論証を試みることが重要である。

 例えば、「行き過ぎた格差は是正すべきだ。」という意見の理由は多くの場合以下のようなものである。

1)格差の固定の問題 
2)行き過ぎた格差が不幸そのものである問題 (議論の目的と直結)
3)対策可能性

2 議論の目的
 格差論の場合、議論の目的は何が妥当だろうか。議論の目的を格差が良いことなのか、それとも悪いことなのかという問題にするのはナンセンスである。問いが漠然としており議論の目的を果たせない。格差論がそもそも唱えられるようになった社会的背景を鑑み、議論の目的を社会正義の実現等の政治哲学上のものとした場合、「行き過ぎた格差は是正すべきだ。」という意見についての結論はより一層明確になる。

3 いじめ問題
 いじめ問題もここまでに述べた内容と同じ議論の性質を有している。

《論点》「救うことができるいじめ被害による命は救うべきだ」
《反論》自殺を止めるのは果たしていいことか?

 このようにかろうじて自殺問題を扱っている点では、半分テーマが一致している。しかしながら、論点は全く別の論点となっている。別の話であり、本来の「救うことができるいじめ被害による命は救うべきだ」という命題についての真偽を判定する材料にはなんら役割を果たしていない。自殺を止めることがいいことかどうかという問題は、前提の一部に過ぎず、局所的に瑣末な論点を取り上げて、例外的な事項を取り扱い、『自殺を止めるのは果たしていいことか?』という問いを発することには、意味がほとんどない。いいこともあれば悪いこともあるからである。末期ガンの患者の安楽死の是非の問題など、極めて例外的な事例と、いじめによる自殺の問題を同じ基準や尺度で考察することはできない。いじめの問題は、対策可能性が何十種類とあり、問題発生の大きな因子が加害者側や社会、周囲の人にもあり、いじめは環境が変わり、時が過ぎれば終わることも多いためである。これだけの理由があるにも関わらず、「死んでもいいのではないか。」と述べる意見が存在することについて、あなたはどう考えるだろうか。テーマが一致しており、論点がズレた意見は時にもっともらしく見えることがある。しかし、議論の論理構造を詳らかにし、論点と理由(前提)の論理的なつながりの強さ、論理的整合性をチェックすれば、論評にも値しない言説か妥当性がどの程度あるのかはすぐに分かる。

4 論点とは何か
 論点とは、真偽を判定することができる命題を含むもののことと、イメージ的に捉えてもよい。論理的な妥当性を考察するポイントである。

5 なぜ論点が重要か
 論点が重要な理由は、小論文を書く際や議論をする際に、この論点から外れた論理的関係性の薄い内容を述べれば、(この人物は、論理的思考力及び、問題発見、問題解決能力が無い)とみなされるためである。総じて試験では点数が低くなり、現実社会でもあらゆる判断が狂いやすくなる。

6 ナンセンスで生産性の無い議論
 論点がズレていくと、ナンセンスで生産性の無い議論が延々と続く。往々にして議論が苦手な人が議論や論争を吹っかけることも現実社会では多い。その場合、議論に負けても、ひたすら論点を延々とずらしながら、反論にならない反論を続けるというやり取りが続くことがある。これはどちらか一方が論理に詳しくない場合に起こりやすい現象であり、小学生の口喧嘩では顕著である。「お前の母ちゃん出べそ。」というのは、論点がズレた文句の代表格である。このように、実質的に論点もテーマもずらした論争をずっと繰り広げる議論は言うまでもなくナンセンスなものである。生産性は0と言えよう。議論に強い人間は、あまり自分から議論をけしかけはしない。その理由は、議論の行方をイメージしているからである。詰将棋のように、議論の論理構造から、どのように言えば、どのような反論があり、その反論の論拠はどの程度妥当であり、どの議論の前提を重視すべきであり、議論の落としどころはどこかをイメージしている。ゆえに、無益な論争を自分からけしかけるようなことはあまりしない。議論に勝つことができる目算というのは、議論を開始する前の、議論の前提をどのレベルで詰めるかという共通の合意形成の度合いによってある程度決まってくるからである。また、相手側の性格から、どのような反応を起こすかという未来の予測の可能性や不確実性をきっちり考察するためである。

 自分からケンカをけしかけた論者は、論破された後にストーカーのようになることもある。ディスカッションの試験の場合、このような人間の特性にも配慮しつつ、議論を展開する慎重な態度が望ましい。

 

V 議論をする際のボリューム思考

1 内容の定量化
 「自殺をする人間が自殺をすることを止めることが果たして良いことなのか・自殺は必ずしも悪いことではない。」という意見は、内容が定性的であるという点で論理の脆弱性を有している。良い・悪いというように、実質的に問いを漠然としたもので感覚的に捉え、その実証性について量的な考察を加えることが成されていない。

・認知されているいじめの件数は、2013年度には過去最多の19.8万件が報告されている。
・潜在的ないじめの件数は数十万件と言われている。
・自殺者は毎年平均約200名の状態が続いており、減少していない。

 これらのデータは、勘や憶測、自分都合の解釈ではなく、FACT(事実)である。物事の妥当性を考察する際に重要なことは、FACTベース(事実から考察を出発させること。)であり、まずは個人的な死生観や価値観によって物事に意味付を定性的に与えていくのではなく、客観的に現象を分析することが重要である。この際に、定量的な尺度で物事を見ていくことが望ましい。

2 理系的MBAの議論
 私が通ったビジネスブレークスルー大学大学院は、学長が大前研一氏ということもあり、文系であるにも関わらず、極めて理系色の強いディスカッションネタが多かった。根元特殊化学株式会社の経営戦略策定や、日本ポリグル株式会社の経営戦略策定など、科学技術を競争力とする企業の競争優位性等を事実を元に客観的に分析しなければならない問題も多かった。大前学長がMIT(世界一の理系大学マサチューセッツ工科大学)出身であることもあり、学長は理系のネタを好み、学生にケースメソッドと言われる手法の議論課題を課していた。このような学長の思考回路が、理系の極みであることも手伝ってか、定性的な上滑りの議論を防ぎ、質実剛健に、多面的に問題の性質を客観的に数値化して分析することが重視された。物事の解釈は客観性を失った瞬間に判断ミスの連発となりやすいためである。大前学長のこのような世界経済を分析する思考回路は、あのピータードラッカーからも高く評価され、大前学長の文献にはピータードラッカーは大変な注目をしていたらしい。

3 定性的議論から定量的議論への変化が重要
 議論を行う際に、物事の意味付を定性的に行うことはナンセンスとなりやすい。その理由は、物事の妥当性を客観的に測る尺度が無くなるためである。自分の感情に基づいた主張に論理的妥当性は無い。したがって、物事の重大性や、重要性、妥当性を論理的に考察するには、定量的な事実から論理の飛躍がないように、解釈を導く必要がある。

 

W 現実との乖離を数字が埋める


1 実態から乖離しないためのボリューム思考
 若者がいじめを苦にして自殺するとき、その自殺行為については、取るに足らない程度の問題であると見なすべきか、極めて例外的な事例であると見なすべきか、些細なことであると見なすべきか、個人の自由だろうとみなすべきかについての判断基準とはどのような客観的データだろうか。重要な考察のための視点とは、判断基準である。

 前述のようないじめが以下の数値で起こっている。
・認知されているいじめの件数は、2013年度には過去最多の19.8万件が報告されている。
・潜在的ないじめの件数は数十万件と言われている。
・自殺者は毎年平均約200名の状態が続いており、減少していない。
※文科省の定義するいじめの内容が変化することによる表面上のいじめ件数減少は起こっているが実態は変わっていないと言われている。

2 自殺理由
「死ぬのは個人の自由だから、好きに死なせてやればいいだろう」

 仮にこのような意見があったとして、この意見の妥当性を考察するには、自殺の直接的な因子がいじめであったかどうかという点が重要になる。本来自殺願望があり、いじめがあろうと無かろうと自殺をしたがっていた人物が、いじめを苦にした自殺者の内、圧倒的な多数を占めるのであれば、このような意見もそれなりに妥当性があるという解釈も成り立つ。
しかし、いじめを直接的な苦として、自殺の直接的原因として自殺を実行した若者は、統計的には、自殺願望があったことにより自殺をしたのではなく、いじめにより精神的に追い詰められた結果自殺をしているということになっている。自殺理由はいじめである。したがって、問題の本質は「自殺を止めることの是非」とは別次元で存在していると言えよう。話が二重三重にズレている。(論点のズレ、前提のズレ)論点を持たない自殺論の話は自殺を苦にして自殺をする若者を救うことを考察する際にまったく無関係な話である。人間は言葉で考える生き物であるため、論理構造に詳しくない人は、真顔で論点のキーワードだけが一致された形で語られることで、何らかの関係がある話だと錯覚してしまうことも珍しくは無い。
あるいじめ事件では、いじめ加害者は、いじめを行い、自殺の練習をさせていたという。いじめを苦として、命を絶とうとする若者に対して、「お前には死ぬ権利があるから死ぬのは自由だ」と言い放つのは、このいじめ加害者の集団が、自殺練習のいじめをさせていたのに似ていると感じるのは私だけだろうか。

3 体験談からデータ分析へ
 議論を行う際に、議論の初心者が惑わされるのが体験談である。「私の身近な人の場合、いじめられている人が大変おかしな人物だったので、あの人がいじめられて自殺しても仕方がないと思う。」多くの場合、このような無責任な体験談で、議論はおかしな方向へと気づかぬうちに誘導されるものである。

「データ」:おかしな人
「主張」:いじめられても仕方がない

 論理構造を分解するとこうなる。この「おかしな人」というデータには、客観的な数値が無い。また、この単発の論理で、「いじめられても仕方がない」というところまで、大胆に論理が飛躍する。

 人と話をするコミュニケーションベタな学生が仮にいたとして、その学生を自殺練習までさせて自殺に追い込む行為が認められるだろうか。言うまでもなく、そのような行為は認められない。仮に客観的にデータを取るのであれば、以下のような方法はその一つである。

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クラスメート40人を対象にアンケートを取ります。
以下の中から、自殺した○○君について、あなたの意見を聞かせてください。

質問:自殺した○○くんは、自殺に追い込まれるほどの激しいいじめを受けても仕方がないという程度におかしな人だとあなたは感じましたか?

1 大変そう思う
2 そう思う
3 どちらでもない
4 あまりそう思わない
5 全くそう思わない

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 このあと、1〜5について、数値化を行い、5を1点、4を2点・・・というように、点数を付け、平均値や中央値を計測するのは一つの客観的なデータの取り方である。

 仮に平均値が1.5中央値が1.4となった場合、客観的に数字から妥当性を判断すれば、「私の身近な人の場合、いじめられている人が大変おかしな人物だったので、あの人がいじめられて自殺しても仕方がないと思う。」という意見は妥当性が極めて低いということになる。

 議論を行う時や、小論文を書く時、単なる体験談や個人的な感想はあまり意味を成さない。現実のデータ(FACT)から客観的にどのような解釈を導くことが妥当性が高いと言えるのかを考えることが重要である。

 









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