どちらを信じればいいのでしょうかに対する答え

 

 

どちらを信じればいいのでしょうかに対する答え


牛山 恭範 (著)


 

※このウェブブックでは、『現代人』という言葉が出てきますが、あなたや、特定の誰かということではありませんのであらかじめご理解頂けきますようお願い致します。


最近では、多くの人が、人生の判断に迷うことがあるようだ。
このようなケースで、人は、

一体どちらを信じればいいのだろうか

と考えるものである。
私がある日コンビニに入ると、食い入るように雑誌を読んでいる40代、50代の男性が二人いた。一人が雑誌を広げて、「〇〇で死亡」という記事を読んでおり、もう一人が、後ろからのぞき込んでいる。

どうやら彼らは同じ仕事仲間のようだ。
建設現場作業員らしきその男性たちは、どちらが正しいのか、どうすればいいのかという判断で困っていたようである。

 

私が受験相談を受ける時も同じだ。

・どちらの人のお勧め参考書をやればいいでしょうか。
・私の彼ピが東大生でこの参考書を激押してきます。
・先生と塾で指導内容が違います。
・勉強方法がいろいろありすぎて分かりません。
・本当に成績が上がるのでしょうか。

 

などなど、枚挙にいとまがない。

 

このようなご質問に対する答えは昔から私の場合決まっており、

どちらも信じなければよい
もっと言えば、

どちらも信じるな


である。

なぜか。


早い話が、信じずに、実態を把握すればいいだけのことである。

ところがここでいくつも問題がある。
現代人は、簡単に判断ミスするように設計されているからだ。

その理由は思考力の限界にある。
思考力の限界は何かを信じることから始まる。

つまり、なんらかの前提を真と考えることがそもそもの思考力の限界である。

そして、なぜ現代人は、騙されやすいのかといえば、以下のような内容を強く信じているためだ。

誤解が無いように述べておくと、現代人は一般的に何かを信じないことが賢い証と考えていたり、その分何かを信じている人よりも、何かを信じていない方が利口なのだという先入観がある。

日本人はこの傾向が強く海外では、そうではない。
日本人は無神論者や宗教をやらない人間が多く、海外では9割を超える人が何かを信仰している。(宗教)

 

違いをはっきりさせておこう。

何かを信じることが思考力の限界になるからといって、何かを信じている人の頭が悪いとか、推論能力が悪いということにはならない。

もう少し分かりやすくいこう。

何かを信じることで思考力が下がるのは、その前提が間違っている場合の話である。
あるいは、まちがっていなくても、その思考の前提となることがらに誤謬が含まれていたり、単なる理屈構築に終始しているだけにすぎない場合に、

 

それらの不完全な思考の土台によって考えた人の思考力が下がるということなのだ。

つまり、信仰と宗教は別とも言える。

信仰とは、仰ぎ、信じることであり、宗教はもとの教えのことである。

まだピンときていない人は多いと思うが、以下のような信仰を現代人は持っていると言えばどうだろうか。

・科学信仰
・ヒエラルキー信仰
・常識信仰
・平和ボケ信仰
・経済力信仰
・西洋医療信仰
・偶然たまたま信仰(あらゆることは偶然たまたま起こっているという考え)
・知識信仰
・大手信仰

そして、現代人はこれらの信仰について、盲信しているところがある。

その結果出てくる答えが、

何を信じればいいのかが分からない

なのである。

ところが、これらのことがらを強く肯定し、疑う余地のないことであるという強い先入観を持ちながら、一方で現代人は、基本的かつ根本的なことがよく理解できないことも多い。

その基本的なことがらとは、

 

AはBである
という命題や、
Bであるために、Cであるという命題が
実際には何を意味しているのかということについては、あまり深く考えようとはしない。

(断っておくと、私は学術の分野で、信奉されてきた論証モデルの不備をつき、牛山の論証モデルを出版している。)

何を信じればいいのでしょうかとは、

AはBであるという命題は真なのでしょうか。
それとも偽なのでしょうか。

 

という素朴な疑問だ。

ここにも一つの思考の限界がある。

例えば、ある命題について、

AはBであるという内容のAとBについて細かく規定した内容、定義づけられた内容が、常に真偽を判定できるように設計可能であるという誤解

これは、学問的にはタブーかもしれないものの、
AはBであるということが、いかに定義しても、YESであり、かつNOであるという可能性を例えば私たちは疑わないことが多い。

まずここからだ。

 

いや、本来であれば、もっと考えを柔軟にしてもいいところ、私たちはこのように、作られた前提の中で思考を行うことが多い。

その上で、科学技術が発展したり、物事を定義づけたり、数学的に何かを少しばかり証明することを試みる中で、知的な万能感におかされ、自己陶酔し、どんどん利口になった気がしてきて、このあたりがあいまいな知の体系や枠組みを、現代人は(多くのケースで)無自覚にあまり考えることなく使用するようになっている。

 

そのわかりやすい事例の一つが東洋的哲学や東洋医学である。

 

私にものごとを教えてくれたある先生は、西洋医学が精神病患者を薬漬けとしてしまい、普通の生活ができなくなるほどの強烈な副作用で、苦しむ状態にしていることに強い憤りを感じていた。

このようなことを言えばすぐに医学関連の仕事をする人は医療批判なのかと過敏に反応することもあるが、文脈を賢いあなたが理解できないとは思えないので、しっかりと文脈を理解してほしい。

その上で、薬害訴訟や、薬害の事例にどのようなものがあるのかをきちんと知り、把握することは、医療人として、良識のある医療を提供することにつながるだけでなく、医学に携わる以前に人として、どのようにあるべきかを強く問うことにつながる。

かつて、医学の祖と言われるヒポクラテスは、医療人の責任を高らかに宣言した。この宣言文こそが、倫理の始まりともいわれている。

患者のための医療である。医は仁術なりとはこのことであり、人のために行動してこそ、真の医療人のはずだ。

 

薬害については多くの医師が、気を付け、診察にあたっているものの、中には不勉強な医師がいるのも事実であり、かえって病状を悪化させている事例は枚挙にいとまがない。

ステロイド薬によるステロイド皮膚症などもその典型例と言える。このようなケースでは、薬を断ち切ることが、回復への道になることは有名だ。その際に副作用で、体の中の毒が一気に噴出するような症状が、半年近く続くものの、そのあとは回復し、健康体になる。

体の健康状態を気の流れや、個人の特性、毒素の代謝など、総合的に俯瞰して見る東洋医学の在り方は、本来であれば、発展的に捉えられるべきところ、不自然にも我が国では、この東洋医学を学び医師免許を取得できる大学は数えるほどしか存在しない。

ここでもやはり、偶然たまたま信者や、西洋医療信者は、それ以上は考えないものである。

このような思考ストップ状態を東大医学部教授の養老氏は、「バカの壁」と呼んだ。
本来の個人のポテンシャルや知的水準に関係なく、人の思考力を奪い、バカにしてしまう要素が、無関心だ。

女性の学生に出産シーンを見せると、
「とても勉強になりました。」
「大変刺激的でした。」
などとプラスに回答し、学びとなっていることが多いのに対して
男性の学生の反応は、
「知っていることだけが撮影されていました」
などと、無価値であったかのように反応してしまう。

現代人は、

AはBである
という基本的な命題についても、誤解している可能性があると私が述べたことは、ここで養老氏が紹介しているバカの壁についても、言える。

思考対象や考察対象について無関心であるとき、私たちは短絡的な結論に至りやすい。

この点を危惧したのはアインシュタインであり、彼は授業に、生徒が好奇心を持つような内容を極力取り入れることを提案していた。

東京大学の男子医学生は、養老氏の話ではマイナスに反応し
東京大学の女子医学生は、養老氏の話ではプラスに反応した。

無関心の反対は、愛などと言われることがある。

出産とは新しい生命個体を、女性の母体から摘出する行為である。

という表現で出産を記述した場合、

答えは、イエスなのか、ノーなのか、
学術的に、いな、記号論的に言えば、答えはイエスかもしれないが、この記述内容に賛同して、そのとおり!と言う女性は少ないだろう。

物事の真偽を判定するという今回の文章のテーマと、このことが何の関係があるのか、少しだけ辛抱して読んでいただきたい。

比較的、ざっくりと表現してしまえば、

あなたの物事に対する解釈は心が決めている。
心と学術で言えば、失格である。
ただ、この文章は論文ではない。
あなたの疑問に答えていく文章である。

もっと簡単に言おう。

ある事柄に対して、
フンと鼻で笑うか、ハハハと笑うかの違い
であり、
ニヤリと笑うか、ニコリと笑うかの違い
である。

この二つの反応は、人のこころのちがいから生まれている。

あなたはどちらの反応が多かったか?

例えば養老氏の話のように、出産ビデオを見せた医学生について、
男子学生はにっこりと笑ったのか、フンと鼻で笑ったのか

どちらだったのだろうか。
女子学生については?

養老氏が述べるバカの壁とは、このように無関心により、もっと言えば、心の状態により物事の解釈がイエスにもノーにもなった好例と言える。

私達現代人は情報を受け取る時にフィルターを通して解釈が分かれる。
あるフィルターを通せば、物事は真にも偽にもなる。

西洋医学は絶対に正しく間違っているわけがないという観点に立脚すれば、
だいたいのことは正しいとなるだろう。

考えるまでもないことだ。
なぜなら、考えていないのだから。

ここから少しマザーテレサの言葉を引用したい。


写真:ウィキペディアより引用

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。

言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。

行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。

習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。

性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

 

- マザー・テレサ

インテリの人のために英文も掲載しておこう。

Be careful of your thoughts, for your thoughts become your words.

Be careful of your words, for your words become your deeds.

Be careful of your deeds, for your deeds become your habits.

Be careful of your habits; for your habits become your character.

Be careful of your character, for your character becomes your destiny.

 

もう一度私の文章を掲載しておこう。

養老氏が述べるバカの壁とは、このように無関心により、もっと言えば、心の状態により物事の解釈がイエスにもノーにもなった好例と言える。


心が運命となる。


もっと言えば、心のフィルターとも言える。
簡単に言えば、にやりと笑うか、ハハハと笑うかということ。

心を作っているのは思考であり、
思考を作っているのは思い込みであり、
思い込みを作っているのは慢心である。

従ってマザーテレサの言葉を
(多様な読者がいると承知しながらあえて表現すれば)
小生が補うのは、はなはだ恐縮だが次のようになる。


慢心に気をつけなさい。慢心は思い込みになるから。
思い込みに気をつけなさい。思い込みは思考になるから。


連結すると次のようになる。


慢心に気をつけなさい。それはいつか思い込み(先入観)になるから。
思い込み(先入観)に気をつけなさい。それはいつか思考になるから。
思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。


現代人の思い込み・信仰を再掲しよう。

・科学信仰
・ヒエラルキー信仰
・常識信仰
・平和ボケ信仰
・経済力信仰
・西洋医療信仰
・偶然たまたま信仰(あらゆることは偶然たまたま起こっているという考え)
・知識信仰

 

つまり、


慢心はあなたの運命となる。


が、連結の要約である。

だから心が大切だよ、と私は常に言っている。
生徒にもそう教えている。

 

何を信じたらいいのかわらかないです
というご質問に対して、牛山は、
何も信じるなと教える。

その上で、
慢心に気をつけなさい
と教え、
素直な心を目指しましょう
と教えている。

なぜか。
その理由はここにある。

受験について、何かを強く信じ込み、判断ミスで受からない人は、だいたい何かを強く信じている。

偏差値、学部の評判、世間評価、ヒエラルキー、世間の常識、東大信仰、見せかけの数字、単なる勘違いの羅列、レベルが低い意見、本質的ではない皮相的な考え、実績の無い指導者の言など・・・きりがない。

 

ところが、これらの多くの判断を誤らせるフィルターが、機能してしまう根本的な問題点は、「慢心」である。

自分は、他の人よりも判断能力が優れているという強い考えが、人の推論能力を下げることが分かっている。しかし、問題は、このような知識を知っても、この慢心の強さは破壊的かつ破滅的であるため、あらゆる人はこの考えに無自覚になり、屈する。

つまり、自分の判断が間違っているかもしれないと判断することに強い嫌悪感がある。

ところで、私牛山のことを気にする人もいるだろう。
牛山はどんなふうに考えているのかと。

あけすけに言えば、「どうでもいい」である。
どうでもいいとはネガティブな言葉であるかのような顔をしているが、言い換えれば執着しないということであり、もっと言えば、欲を捨てるともとれる。

そんな立派な聖人君子ではないものの、心が前進することについて、なげやりであったり、どうせそんなことやってもとか、意味が無いなどとは、私は考えない。

その理由は、おそらくここしか大事ではないからだ。
かつて16歳くらいのとき、縁あって、トルストイの人生論を読んだ。
その時に、トルストイが説いていることは、限られた命の重要性である。

命が有限だからすきにやるんだという考えと、命が有限だからこそこの瞬間に感謝して、大切に生きるという考えの違いはどこから生まれるのだろうか。

 

ここで、物事を判断する能力に決定的な違いをもたらす心を形成する上で、要となる3つの壁が少なくとも考えられる。

第一の壁は形而上の壁である。。
第二の壁は経験の壁だ。
第三の壁は先入観の壁である。

 

この3つはすべて心のことだ。
理由は割愛する。

いつも自分はすべてにおいて間違っているかもしれないと考えることは、重要だ。

なぜならば、この考えに立脚した時、すべての先入観や間違った判断のフィルターを活用することなく、パズルのピースを一段階目から積み上げることができるからである。

 

どちらを信じたらいいのでしょうか。
と、あなたが迷ったときは、
自分の胸に手を当てて、素直な心になりたいと願う。

そうすれば、よりよい判断が下せるようになるだろう。

 

あなたの未来と、命がより豊かになることを願っている。

 

2021年9月7日(牛山の中でだけ、今日を心の日と名付けよう。)

牛山 恭範

 

追伸

 

もし人生で、判断を誤り、後悔する瞬間が訪れたらどうすればいいかを書いておこう。

自暴自棄にならずに。
あなたは大丈夫だから、頼るべき人を頼ろう。

 

 







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