慶應小論文添削で失敗しない為の秘訣:無料ウェブ

 

(15)「問題解決アプローチ」と呼ばれる思考の型にはめるリスク(危険性)

【そもそも、あまり出題されない】
 慶應SFCでは、問題解決力を見られることが多い。ゆえに、時には、以下のような問題が出る。受験生に問題点を明らかにさせた上で、解決策を提案させる問題は出題されることがある。

 しかし、このような問題が出るのは、ほとんどのケースで慶應大学総合政策学部と環境情報学部である。当然他の学部で、聞かれてもいないのに解決策を提示しようものなら、トンチンカンな答案となり、点数は無い。

【正解ではない】
 何らかの問題に対して、まず第一に、本質的な問題点を明らかにし、その後、その本質的な問題点の裏返しの対策案を述べるのは、問題解決アプローチの唯一の対策ではない。問題点が何であれ、大きなアップサイドが見込める対策を行うことも、一つの問題解決である。それにも関わらず、問題点を明らかにするという一点張りになるとどうなるか。

 多くのケースで思考がこじんまりしてくる。そつのない受験生というのは、慶應SFCが嫌うタイプの受験生でもある。とがった人材を欲する慶應SFCでは、均一で他の人と代わり映えしない人は、あまり魅力的ではない。

 仮に一般的な人材だけを集めるのであれば、慶應SFCの存在意義そのものがひどく薄まってしまうだろう。ゆえに、とがった逸材を求めている。それにも関わらず、卑しくも大学に媚び、問題解決の方法をパターン化して、はんこを押すように、何が出ても、何も自分の頭で考えずに、好き勝手に原因を述べ、解決策を述べればどうなるか。

 そのような行為は、正解でもなんでもない。慶應SFCの存在意義を薄め、自分の頭で考えない学生を量産するような活動になってしまう。ゆえに、私は問題解決アプローチを受験生に教えることはあっても、「それを金科玉条とするな」と教えている。自分の頭で考え、物事に対処していく力を育むことが何より大事である。

 大学側は、3分で覚えることができる問題解決のアプローチを覚えている人を「慶應大学へようこそ」と迎えたいわけではない。

 問題解決ができる人間を迎えたいのである。問題解決のアプローチそのものを「合格できる答え」だと思っている人間を慶應大学は迎えたいわけではない。それなら、誰でも3分で合格できるという話になってしまうだろう。


 馬鹿ということばの由来をあなたは知っているだろうか。馬鹿とは、自分の頭で考えない人のことである。

 かつて中国の秦の時代に、皇帝を操る丞相で、趙高という人物がいた。この丞相(宦官)は絶大な権力を持っており、多くの文官は彼を恐れた。逆らえば殺されるからである。

 ある日、文官の忠誠度を確認するため、趙高は、鹿を、宮廷に持ち込み、皇帝の前にひれ伏す文官に向かってこう言った。



 「見よ、見事な馬であろう。」

 見ればだれでも分かる。その動物は鹿であった。しかし、趙高を恐れた多くの文官は、

 「まことに、見事な馬でございます。」

 と、述べたのである。

 このように、馬鹿という言葉は、鹿を馬と呼ぶほどに、自分の頭で考えることをしなくなった者のことを指す。

 

 この後間もなく、秦帝国は滅んでしまった。
 あなたは、自分の頭で考えるということをどれだけ大切にしているだろうか。

 

 大学側は、問題解決の力をあの手この手で見極める。現実には問題解決のアプローチを書かせるのではなく、(そういう問題が出ることはあるが、その時には問題が分解されており、細かく指示があるので、問題解決のアプローチを覚えていようが、覚えていまいが、あまり差は無いとも言える。また、差が生まれないように、大学側は必死に問題を組むことが多い。それは小論文試験の趣旨を考えればすぐにわかるだろう。)

 どれだけの技術レベル(スキルレベル)で、その問題解決のステップを踏むことができるかを試すのである。ゆえに、資料分析型の問題が出題されることもあれば、要約系の問題が出ることもあるのである。

 その時に一つ一つ、出題意図と、問題作成の趣旨を理解した上で、高いレベルであなたの技術レベルを見せることが必要なのだ。間違っても問題解決のステップで答案を構成すれば、それで合格できるなどと考えてはならない。

 

(16)結論を書かずに序論を書くリスク

 小論文を書く際に、結論から書かずとも良いという意見がある。その理由は、序論と結論で二度意見を書くことになるから無駄なのだというものである。また、結論から論文を書くのはビジネスだけであとは違うなどとも述べる講師がいる。

 はたしてこのような言説は妥当だろうか。世界の論文の書き方を見渡しても、理系、文系問わず、最初の要約で結論を述べるのは極めて一般的である。しかしながら、このような反論にも、独自の理論で反論をする講師も存在する。小論文は学術論文とは違うのであるからして、最初に結論は書かなくてもいいのだという。

 小論文は学術論文と違うので、自分が述べる書き方でよいというのは、大変乱暴な物言いと言わざるを得ない。ここまでに述べたように、そもそもビジネス用論文だけが結論から述べるなどという事実は無い。(ビジネス用論文ってなんのことを指しているの?という話もあるが。)原則として結論から書くのが一般的だ。このように最初の段落で意見を述べない論文を推奨するのは、文学部出身の講師であることがほとんどである。

 MITなどの世界トップスクールでも、「要約」を強調する教授が多い。また、二度同じことを書くのでダメなどという指導はそもそも理由になっていない。論文は何度も同じ表現を用いることは一般的であり、表現の統一、論点の統一により、論理的整合性を保つことが可能になる性格がある。文章表現にこだわるのは良いとしても、このようにあからさまに理由になっていない理由で、小論文の書き方を独自に断定的に述べるのは危険としか言いようがない。

 もちろん、小論文の書き方に絶対的な書き方が存在しないがゆえに、一定程度あいまいさを残して指導するのは仕方がない。しかし、ここで紹介したように、同じことを述べているので、とか、ビジネス用なのでとか、小論文と学術論文は違うので、などといった理由でこのような独自の書き方の正当性を主張するのであれば、それはやりすぎとしか言いようがない。理由が理由になってないからだ。事実に反するばかりか、一般原則でもない。

 小論文は特別な要求が設問に無い限り、論述型の問題で結論から述べて差し支えは無いと考えられる。論文作成において、結論から述べる行為は、世界のあらゆる学問の分野におけるスタンダードであり、慣例的作法とも言える部類に属する。

 

 

 









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